10■絵と時間【3】メルロ=ポンティ「眼と精神」より
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前項のロダンの言葉を引用したメルロ=ポンティは、「眼と精神」で次のように書いている。
画像が、実際の運動が私の眼球に与えるものとほとんど同じものを与えるということもあろう。たとえば、適当に混ぜ合わされた一連の瞬間的視像――対象が生物である場合なら、前の瞬間と後の瞬間のいずれともつかないような不安定な姿勢をした瞬間的視像、――要するに観察者が〈痕跡〉から読みとるような〈位置の変化の外面〉を、画像が与えるということもある。だが、ここでこそ、ロダンの有名な注意が重要になってくるのだ。つまり、瞬間的な視像、不安定な姿勢は運動を石化してしまう、――競技者が永遠に凍りついてしまっているような多くの写真がそれを示しているではないか、というのだ。視像をふやしてみたところで、この凍結を溶かすわけにはいかない。マレーの写真、キュビスムの分析[的画像]、デュシャンの「花嫁」、これらは身じろぎもしない。それらが示しているのは、運動についてのゼノン風の幻想である。そこに見られるのは、節々が動くようになっている鎧のように硬直した身体なのであって、それは魔法を使ってでもいるかのよう、ここにもおりあちらにもいるのだが、しかしけっしてここからあちらへ〈行き〉はしない。(中略)
ロダンが言っている。運動を見せてくれるもの、それは腕・脚・頭をそれぞれ別の瞬間にとらえた像(イマージュ)であり、したがって身体をそれがどんな瞬間にもとったことのない姿勢で描き、――まるで両立しえないもののこの出逢いが、いや、それのみが、ブロンズや画布の上に[ポーズの]推移と[時間の]持続とを湧出させうるのだとでも言わんばかりに、――身体の諸部分を虚構的に継ぎ合わせたような像なのだ、と。(中略)
脚が地面から離れた瞬間に、したがってその脚をほとんど身体の下にたたみこみ完全に運動しきっているところを撮された馬が、ただその場で跳び上がっているようにしか見えないのは、なぜだろうか。そしてそれとは逆に、ジェリコの描いた馬たちが画布の上を、それも全速力で走る馬にはおよそありえないような姿勢で走っているのは、なぜだろうか。それは、彼の「エプサム競馬」の馬たちが、地面に対する身の構えを私に見せてくれ、しかも、私が熟知している身体の世界の論理に従えば、この空間に対する身の構えは、また持続に対する構えでもあるからなのだ。このことについても、ロダンは深みのある言葉を洩らしている。「芸術家こそ真実を告げているのであって、嘘をついているのは写真のほうなのです。というのは、現実においては時間が止まることはないからです」。時間の衝迫がただちに閉じてしまうはずの瞬間を、写真は開きっぱなしにしておく。写真は時間の超出・侵蝕・「変身」を打ちこわしてしまうが、絵画は逆にそれを見えるようにしてくれる。というのは、馬はそうしたもののなかでこそ「ここを去ってあちらへ行く」ことになるからであり、馬はそれぞれの瞬間の中なかに脚を踏み入れているからである。絵画は運動の外面ではなく、運動の秘密の暗号を求める。ロダンの語っている以上に微妙な暗号があるのだ。それはつまり、〈すべての肉体が、そして世界の肉体でさえ、おのれ自身の外へ放射する〉ということである。しかし、時代に応じ流派により、外に現れた運動に愛着を感じようが不朽のものを好もうが、絵画がまったく時間の外にあるということはけっしてない。絵画はいつも肉体的なもののうちにあるのだから。(木田元・訳「眼と精神」みすず書房『間接的言語と沈黙の声』215~217頁)
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