11■複数の絵
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絵を複数並べることについて考えてみる。
そのように考えるには、そもそも絵を「複数」ととらえることが必要だ。
たとえば、何かの絵を描き、続けてその脇にまた絵を描くことは、ごく普通にされる行為だ。単にさまざまな絵が併置されているということなら、それこそ、ラスコーの洞窟壁画にまでさかのぼることができる。しかしそのような絵は、そもそも数えることができない。洞窟壁画に描かれた動物の個体数を数えることはできるが、絵がいくつ存在するのかは、定かでない。どこまでが1つの絵で、どこからが違う絵なのか、わからない。ただ動物の絵が次々と並んでいるだけである。
絵が複数であるためには、描かれた絵をひとつの「領域」ととらえて、独立したものと見なし、他の絵と区別することが必要である。領域が成立するということは、その内と外が生まれるということであり、絵の外縁が明確になるということである。一般的には、その外縁に「境界線」が現われる。
見えない境界線もあるだろう。また、ひとつの絵の中に複数の領域を見出すこともできるだろう。そのような「領域」を考えることも必要であるが、ここではひとまず、「絵の外縁」としての境界線が現われるという点から「領域」を考えてみる。
外縁は、多くの場合、メディア(紙、板、壁など)の物理的な終端部に現われるか、またはそのメディア上に引かれた(あるいは浮き出る)境界線として現われる。
この両者は、もちろん同時にも現われる。たとえば絵画の場合なら、キャンバスの終端部がとりあえず絵の外縁ではあるが、いったんそれが額装されると、額縁やパスパルトゥーとの境目が、意図された外縁として浮き出る。
このようにして、絵が独立した領域となり、境界線を持つことで、それを複数集めて併置していくことも可能になる。先に境界線があり、その枠の中に絵を埋めていく場合も、原則として同様と考えられる。枠ができると、同時にそこに領域は成立しているのだから、たとえ絵は空白であっても、それはもはや単なる空白ではなく、「空白という絵」である。
独立した絵を複数集めて併置したにしろ、先に境界線を構成してから絵を埋めていったにしろ、いずれにしろコマ割り風の構成は、絵の可算化という操作に支えられている。複数の絵を併置するためには、数えられないものを、数えられるようにする作業が、根本的に必要である。
この「絵の可算化という操作」こそ、テプファーの行なっていた「絵を区切ること」にほかならない。テプファーの枠線は、もともとはフレームを構成するために引かれたのではない。区切ることによって、絵を可算化したのだ。
その時、はじめて「1」が生まれ、同時に「2」を呼び込む。数えられない絵は、1でも2でもない。ひとつの絵があるように見えたとしても、それが数えられない限りは、まだ「単数」ではない。「単数」になるということは、同時に「複数」をはらむことであり、数えられるようなものになったということだ。
テプファーが絵を描き、その脇に1本の境界線を引いた時、その絵は「単数」へと変貌し、その境界線の向こう側に、未だ描かれざる複数の絵が潜在的に出現したのだと言える。その未決定の未来へ向かって筆を走らせ、次々と絵を顕在化していった作業の軌跡が、テプファーの作品なのではないか。
先に「07■コマ割り表現と時間」の2.で述べたように、コマ割り表現の機能として「物語や時間経過を表わすこと」を中心に考えると、以上のような根本的な機能が見失われやすい。コマ割り表現がさまざまな機能を発揮することができるダイナミズムの源こそを考える必要がある。
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