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2008.05.05

14■関係について

(ここにあるのは旧ファイルです。このページの内容を踏まえた、新たなテキスト「まんが史の基礎問題」をアップしています。トップページからアクセスして下さい)


 前項で引用した文章の中でドゥルーズは「接続詞を解放し、関係一般について考察した人は、イギリスとアメリカの思想家以外にはほとんどいません。」と述べている。その思想家のひとりと思われるイギリスのヒュームについて、ドゥルーズは別のところで以下のように書いている。

ヒュームの独創性、ヒュームの数ある独創性のひとつは、「関係は、関係する項に対して外在的である」とヒュームが力を込めて主張するところに由来する。
(中略)
関係とは何か。関係とは、私たちを、与えられた印象や観念から、現実には与えられていない何かの観念へと移行させるものである。たとえば私は何かに似た何かを思考する。ピエールの写真を見ると、私は、そこにいないピエールのことを思考する。与えられた項の中に移行の根拠を探し求めてもむなしいだろう。関係それ自体は、連合の原理、隣接の原理、類似の原理、原因性の原理と呼ばれる諸原理の効果であるし、これら諸原理がまさに人間の本性を構成する。人間精神における普遍的ないし恒常的なものとは、決して項としてのあれこれの観念ではなく、たんに特定の観念から別の観念へ移行するその仕方であるということ、これが人間の本性の意味するところである。(小泉義之・訳「ヒューム」(河出書房新社)「無人島1969-1974」より引用)

 関係は、コマとコマの間にある。関係が、ヒュームのいうように、項(コマ)に対して外在的であるとするならば、「与えられた項の中に移行の根拠を探し求めてもむなしい」ということになる。つまり、コマとコマの関係が生み出すものの根拠は、コマの中にはない。むしろ、それは人間の本性として考えるべき問題となる。
 ドゥルーズは続けて、原因性の関係を取り上げて、こう書いている。

 原因性は、私を、私に与えられた何かから私に決して与えられることのなかった何かの観念へ、さらには、経験には与えられない何かの観念へと移行させる。たとえば、書物のなかの記号から出発して、私はシーザーが生きていたと信ずる。太陽が昇るのを見て、私は明日太陽が昇るだろうと語る。水が100℃で沸騰するのを見たことで、私は水が必ず100℃で沸騰すると語る。ところが、明日、常に、必ずといった語法は、経験には与えられえない何かを表現している。(中略)原因性の関係は、それによって、私が与えられたものを超越してゆく関係、私が与えられたものや与えられうるもの以上のことを語る関係、要するに、それによって、私が推論し私が信ずる関係、私が何ごとかを待ち受けて予期する関係である。(同)

 現代の我々が普段経験しているコマ割り表現の生産性とは、このような「関係」のことであろう。コマ割り表現によって伝わるものは、そこには描かれていない。そこに描かれてあるものを超越していくこと、そこに描かれてあるもの以上のことを推論し信じることが、コマ割り表現を読むことである。
 超越である以上、そこに描かれてあるものの中に根拠はない。もし、それでもあえて何かを探すとすれば、テププァーが無造作に引いた1本の線が目に入ってくるほかないだろう。「と」としての線が。

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