19■ホガースの連続画【2】「Before and After」をめぐって
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ならばホガースの作品は、コマ割りまんがの源流のひとつとしては評価するに値しないのだろうか。デイヴィド・カンズルは、コミック・ストリップの歴史を考える上で、ホガースが連作として描いた最も初期の絵画である「Before and After(ことの前と後)」(1730年)に注目している。この2枚組みの油絵は、「ことの前と後」を示すことで、その間に起きたことを描かずに、受け手に想像させる表現をとっている。(右の「リンク」参照)
連続した絵の関係性自体が、見る者の内に意味を生み出すという点では、確かにこの2枚の絵は、テプファーやその後の時代につながるものを感じさせてくれる。
この後にホガースは、この手法を「発展」させて、6枚組みの「遊女一代記」(1732年)を描き、連続物語版画という手法を定着させ、次々と作品を生み出していく。その手法の「発展」がいかなるものであったかは、同じ「Before and After」というテーマで描いた別の2枚組みの油絵(1730-31年)と、その版画(1736年)を見て比較すると、よりわかりやすいだろう。
先の「Before and After」と近い時期に描かれた、もうひとつの「Before and After」は、舞台を室内に移して、やはり男女の「ことの前後」を描いている。室内であるだけに、象徴的な意味を持たせるための小道具や背景が豊富に描かれ、我々がよく知るホガースらしい情報量の多い図案となっている。5年ほど後に描かれた版画では、さらに情報量が上がり、部屋の中にかかった絵が象徴的な意味を補強し、他の連続物語版画ときわめて似た表現が用いられている。このようなホガースの版画では、画面のあらゆる場所から、さまざまな「意味」が噴出してくる。
それに比べると、野外を舞台にした第1バージョンの「Before and After」は、画面の中の情報量が乏しく、後年のホガースの表現に慣れた目で見ると、どこか物足りない気持ちになる。ワトー調の絵のパロディを意識して描かれたといわれるこの絵では、背景は象徴的な意味が薄く、単なる背景に近い印象を与える。「キャラクターと、その背景」というシンプルな構成の絵のようにも見える。
ホガースは、この第1バージョンの絵を版画化していない。ホガースの選んだ手法の「発展」とは、1枚の絵の中の情報量を上げていくことであり、そのプロセスの中で、この第1バージョンの図案は捨ておかれるのだ。
1枚の絵の情報量が上がると、それを見る者の「滞空時間」は長くなり、その絵の中で成立する意味も増えていくことになる。その分、絵の自立性は高まるが、それに反して「連続性」の効果は、相対的に印象が弱まることになる。
野外を舞台にした「Before and After」第1バージョンが、後の「コマ割りまんが」的なダイナミズムに近いものを感じさせる理由は、おそらくそのあたりに理由があるのではないか。1枚の絵の情報量が比較的低い分だけ、連続性の効果が前面に出てきて、見る者に「2枚の関係が生み出す意味」をより強く感じさせるのだ。
後の連続物語版画シリーズも、本来ならば同じような連続性の効果を持っているはずであり、実際さまざまな「ことの前と後」が表現されている。しかしそれは、1枚ごとの画面が生み出す膨大な情報量に押し流されて、飲み込まれかけている。
それは、版画を販売する上での必要性もあってのことだろう。ビジネスの面からすると、1枚1枚が面白く見られ、商品価値があることが重要だ。しかしその結果、ホガースは「連続性」という新しい質の効果の追究よりも、1枚1枚に意味の量を盛りこんで補強し、塗り込めていくことに力を注いでいく。「Before and After」第1バージョンの方向性が持っていたはずの可能性が、それ以上振り返られることはなかった。
後のテプファーにおいては、1コマ1コマには商品価値を求める必要はなく、むしろラフな描き方で「かきとばしている」。だからこそ、見る者はひとつひとつの絵には執着することがなく、結果的に、連続性そのものがむき出しになって前面に表われる。絵そのものが語るのではなく、絵と絵の関係が語っているのだ。
エルンスト・ゴンブリッチは、テプファーの戯画的な表現について、以下のように述べている。
かかる省略的な様式を使用する美術家は、自分が割愛しているものはつねに観照者の方で補足してくれるものと当てにできる。練達の技術で完璧に仕上げられた絵画では、どんなわずかな欠陥でも混乱のもととなるだろうが、テプファーとその模倣者たちの慣用語では、そのような省略の表現も話術のうちとして読んでもらえるのだ。(瀬戸慶久・訳「芸術と幻影」岩崎美術社 より引用)
観照者の補足とは、つまり、生産力を持った読者ということであり、それは戯画的な画風の特徴であるとともに、コマ割り表現の特徴でもある。
テプファーのコマ割り表現が、あのようなものとして成立するためには、単にコマ割りの技法的な問題にはとどまらずに、その中に描き込まれる絵の情報量の少なさ自体も、重要だったのだ。「関係について」の項で述べたように、「コマ割り表現によって伝わるものは、そこには描かれていない。」 テプファーにおいては、1コマ1コマの絵の相対的な「無意味さ」こそが、連続による生産性を引き立てていた。それに対してホガースは、1つ1つの絵そのものに饒舌に語らせようとしていく。
テプファーの革新性は、1コマ1コマの無意味さにある。
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