20■絵柄について【1】
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テプファーのコマ割り表現においては、コマの中に描き込まれる絵の情報量の少なさも重要であったと、前項で述べた。実際、ホガースの絵や版画に比べると、テプファーのペン画は、非常にシンプルに見える。そうだとしたら、そのようなテプファーの絵柄自体がどのようなものであったかを、具体的に考えてみる必要がある。テプファーというと、まずコマ割りのことを考えてしまいがちだが、その絵柄はどのようなものだったのか。
そもそも「絵柄」とは何なのだろう。絵柄を具体的に言葉で説明することは可能なのだろうか。
たとえば一般的な「まんが的な絵柄」をイメージする場合、前に述べたように、「まんが的な絵」を定義することは、厳密には不可能である。また、その定義によく用いられる「省略的」「戯画的」などという言葉も、実際に使われている意味はかなり場当たり的で、その時々によって受け止め方が異なるように思われる。実際のところ、まんが的な絵と、省略的な絵と、戯画と、風刺画と、カリカチュアと、線画は、どう違って、どう関連するのか。それぞれの言葉は、それぞれの時代の中でいったい何を意味しているのか。
テプファーやホガースは、自分の絵柄に関して自覚的であり、それぞれ絵の問題を考察し、文章に書き留めている。
ホガースは「Characters and Caricaturas」という版画に添えた文章の中で、自分の描いたものを「カリカチュア」と呼ばれることを拒否している。この作品について森洋子は以下のように述べている。
「当世風結婚」の予約申込み券(後に単独で販売)であったこの版画は、ホガースの戯画論の重要なマニフェストである。下段にラファエルロ「リュストラの犠牲」からの聖ヨハネ、「神殿の美しい門に立つペテロとヨハネ」からの乞食、「アテネで説教する聖ペテロ」からの同聖人が画かれている。そしてそれらを「性格」CHARACTERS と呼称し、ピエル・レオーネ・ゲッツィ、アンニバレ・カラッチ、レオナルド・ダ・ヴィンチの歪曲された人物像を「戯画」CARICATURAS と名づけた。彼は上部に120種余りの頭部を画いているが、各頭部の表情や心理状態だけでなく、人相学的研究による性格把握にまで徹底している。さらに版画の余白に「”性格と戯画”の相違についての詳細な説明は、『ジョウゼフ・アンドルーズ』の序文を参照」と注釈。この小説の著者フィールディングは、その序文の中で、喜劇的小説と道化の相違は、絵画での喜劇的歴史画と戯画との相違に匹敵する、と述べた。なぜなら道化とは奇怪なもの、不自然のものの陳列にすぎず、その意味で歪曲、誇張、放縦な画(戯画)と同列である。ところが喜劇は自然に忠実であり、自然の正しい模倣から生まれる、という。ホガースが、この序文に共鳴したのは、彼が戯画作家ではなく、喜劇的歴史画家であるという自負からである。(森洋子「ホガースの銅版画 ―英国の世相と諷刺―」岩崎美術社 より引用)
森によれば、ホガースは自分の絵を「自然に忠実な模倣」を行なうものだと考えており、カリカチュア(戯画)のような誇張や歪曲とは一線を画そうとしている。この時代は、人相学や骨相学などが流行して信じられていた時代でもあり、ホガースはそれらの研究成果も踏まえている。後にホガースが執筆した美術理論書「美の解析」(中央公論美術出版から昨年翻訳が出た)においては、人相学を過度に信じる態度は退けられているが、基本的な考え方は同じである。自然の持っている原理を探りあて、それを反映するための表現の技術が問題にされている。「美の解析」の中でホガースは、まずは現実をきちんと見ることが重要であり、そこから美のイデアを見出して表現する原理を手に入れるためには、優れた美術家であるべきだと述べている。「この主題の諸要素を次々と探究していくを可能とするためには、絵画の技芸全体(彫刻だけでは不十分)にわたり相当秀でており、具体的な知識を有していることが不可欠」(宮崎直子・訳、中央公論美術出版 より引用)
ホガースは一般的に「諷刺画家」として評価されることも多いが、その「諷刺画」という言葉が「カリカチュア」と言いなおされると、現代の日本に生きる我々には、異なった印象で受けとめられやすい。諷刺という、絵の社会的な機能の問題ではなく、戯画という描画法の問題に感じられてしまうのだ。その結果、ホガースの絵柄を「カリカチュア=戯画=歪曲・誇張された絵」と受けとめてしまう。だが、ホガース自身は、そのような「不自然な表現」を明確に否定している。
一方、テプファーは自分の絵をどう考えていたのだろうか。
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