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2008.05.30

21■絵柄について【2】

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 テプファーの考え方は、ホガースとはかなり異なっている。
 1845年に発表された「人相学についてのエッセイ」の中でテプファーは、「文学」に対する「絵物語」の優位性を説き、ホガースの連続版画を称賛している。しかし、絵をいかに描くかという点では、対照的な姿勢を見せる。テプファーは人間を描くことについて、ホガースが追い求めていたような、自然な美を忠実に表現するための卓越した技術を、不要だと述べる。
 著作の中で度々テプファーについて言及しているエルンスト・ゴンブリッチは、このエッセイについて以下のように述べている。

この媒体を、善意は持ち合わせているものの絵に未熟な教育者に勧めるため、テプファーは、あなた方でも、自然を参照したり、モデルを使ってデッサンを習わずとも絵画の言語が引き出せると、自分の考えた心理学的発見を講評する。線画は純粋に慣習的な象徴的表現なりと彼はいう。(中略)
絵物語の語り手にとって必要な一事、それは人相と人間の表情についての知識である。要するに、納得させるに足る物語の主人公を創作し、その主人公が出会う人びとに性格を与えなければならないし、彼らの反応を伝達し読みとれる表情によって物語の内容を表わすようにしなければならないのだ。このためには、美術学校が美術家の卵たちに課しているテプファー流に言えば楽しい授業、つまり、石膏像を何年もデッサンし、その眼、耳、鼻を描いたことのある熟練した美術家というものが必要ではないだろうか。テプファーにとって、こういった修練は一切時間の浪費である。絵物語に必要な実用的人相は、人間などには目もくれない世捨人によってはじめて学べるものなのだ。必要なものは、画材と何がしかの忍耐力のみ。というのは、どれほど不適当で子供っぽい拙い顔の絵でも、それが描かれたものである限り、性格を持ち表情を持っている。そのようなわけで、これは知識や芸術とはまったく無縁のものであってみれば、誰だって、やってみたいと思っている人ならば、表情に宿っているところの特性をきっと見つけ出せるに違いないのである。そこでまず取組むべきは、走り書きを組織的に変えて行くことであって、もしも最初のモデル人形(原文に図あり)が間が抜けていて取りすましているように見えるのならば、眼をいくらか鼻に近づけて描き直してみると、そのように見えなくなると思う。こうして、素朴な特性をただ転換してみるだけのことで、孤独に生きるわが隠者氏は、これらの個々のもの、ならびにその組合わせが作者や観照者の眼にどのように映ずるかを発見するだろう。同じようにして、鼻とか口のちょっとした実地練習から、基本的な徴候がどんなものかがわかり、この段階から出発して、いたずら書きを繰返すだけで、いろいろな役の登場人物たちを創り出せるところまで上達できるのだ。テプファーの言によれば、自分の創作した物語に登場する主人公たちは、こんな工合にしてペンの戯れから生まれたのだという。
絵物語には、もう一つだけ手だてが必要だ。私たちは、性格を示すものとしてのテプファーのいう「パーマネントな特性」と、情動を示すものとしての「パーマネントでない特性」の区別を知らなければならない。パーマネントな特性についてテプファーは、その当時、性格の根本を示す何か際立ったものはないかと探究していた骨相学者たちを手玉にとってからかっている。十二人の横顔どれもが(原文に図あり)、同じひたい、つまりかのベルヴェデーレのアポロ像と同じひたいをしている、と彼は指摘している。だが、ゲシュタルト(形態)がかくも千差万別なところをみて頂きたい。(中略)
テプファーは、心理学者なら表情の「最小限手がかり」とでも呼びそうなものを探しているわけで、この種の手がかりに対して、私たちは現実・芸術のいかんを問わず反応を示すのである。そのような手がかりが組織的に変えられた場合に、いたずら書きではなくて自分自身がどんな感じを受けるかを発見しようとして、テプファーは手がかりを人相知覚の秘密をさぐるための道具として使用しているのだ。(前出「芸術と幻影」より)

 この文にある「どれほど不適当で子供っぽい拙い顔の絵でも、それが描かれたものである限り、性格を持ち表情を持っている」という現象について、ゴンブリッチは他の著作の中で、それを「テプファーの法則」と呼んではどうかと提案している。「つまり人の顔と解釈できれば、どんなに雑に描いた形象もそれ自体でなんらかの表情や個性を表すという命題を彼は立てたのである」(「イメージと目」より)
 テプファーは、まず絵から始めている。現実から始めようとするホガースの考え方とは、スタートラインからして違っている。
 人相学は、人間の性格や能力などが顔に反映しているという前提に立って、人相を分析しようとしたものだ。ヨーロッパでは古くからある考え方だが、テプファーの時代には、同じスイスのラファーターの著作「観相術」などが流行し、広く読まれていたようだ。また、同様に骨相学も流行しており、頭の骨の形状からその人の精神的傾向を明らかにできると考えられていた。ホガースも、このような考え方を取り入れて、性格の描き分けに利用しているし、テプファーの同時代では、グランヴィルなども同様の手法を取り入れている。しかしテプファーは、そのような「反映」の手法をとらない。
 テプファーは、ホガースのいう「自然に忠実な〈キャラクター〉」を描こうとはしないし、かといって「不自然に歪曲や誇張された〈カリカチュア〉」を描こうとしているわけでもないように見える。自然であろうが不自然であろうが、そもそも現実の「反映」という考え方から、絵を描き始めてはいない。むしろ、絵の自律的な生成という考え方が強く感じられる。絵は、絵の次元の中で生まれ、形作られ、自足していく。現実を模倣するのではなく、絵の内部の力学で自己完結していくのだ。
 もちろん、テプファーの作品には多くの現実が具体的に描かれており、現実の反映と無縁なわけではない。そもそも、絵の自律性を徹底的に追究しようとしたら、具象にとどまることはできない。実際、近代絵画はその道をたどっていった。たとえばテプファーと同じスイスのパウル・クレーの作品を思い浮かべれば、それがどこに行き着くかわかるだろう。クレーの線画作品は、思い起こせば、テプファーの「人相学についてのエッセイ」に添えられた図にきわめて類似した手触りを感じさせる。

 絵を「1」にし、潜在的な「2」へ向かって生成していったテプファーの描き方は、コマ割り表現だけにとどまらない。絵そのものも、その場で生成されるものとして、強く意識されている。走り書きのような筆法には、そのような考え方が読み取れる。

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2008.05.28

20■絵柄について【1】

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 テプファーのコマ割り表現においては、コマの中に描き込まれる絵の情報量の少なさも重要であったと、前項で述べた。実際、ホガースの絵や版画に比べると、テプファーのペン画は、非常にシンプルに見える。そうだとしたら、そのようなテプファーの絵柄自体がどのようなものであったかを、具体的に考えてみる必要がある。テプファーというと、まずコマ割りのことを考えてしまいがちだが、その絵柄はどのようなものだったのか。
 そもそも「絵柄」とは何なのだろう。絵柄を具体的に言葉で説明することは可能なのだろうか。
 たとえば一般的な「まんが的な絵柄」をイメージする場合、前に述べたように、「まんが的な絵」を定義することは、厳密には不可能である。また、その定義によく用いられる「省略的」「戯画的」などという言葉も、実際に使われている意味はかなり場当たり的で、その時々によって受け止め方が異なるように思われる。実際のところ、まんが的な絵と、省略的な絵と、戯画と、風刺画と、カリカチュアと、線画は、どう違って、どう関連するのか。それぞれの言葉は、それぞれの時代の中でいったい何を意味しているのか。

 テプファーやホガースは、自分の絵柄に関して自覚的であり、それぞれ絵の問題を考察し、文章に書き留めている。
 ホガースは「Characters and Caricaturas」という版画に添えた文章の中で、自分の描いたものを「カリカチュア」と呼ばれることを拒否している。この作品について森洋子は以下のように述べている。

「当世風結婚」の予約申込み券(後に単独で販売)であったこの版画は、ホガースの戯画論の重要なマニフェストである。下段にラファエルロ「リュストラの犠牲」からの聖ヨハネ、「神殿の美しい門に立つペテロとヨハネ」からの乞食、「アテネで説教する聖ペテロ」からの同聖人が画かれている。そしてそれらを「性格」CHARACTERS と呼称し、ピエル・レオーネ・ゲッツィ、アンニバレ・カラッチ、レオナルド・ダ・ヴィンチの歪曲された人物像を「戯画」CARICATURAS と名づけた。彼は上部に120種余りの頭部を画いているが、各頭部の表情や心理状態だけでなく、人相学的研究による性格把握にまで徹底している。さらに版画の余白に「”性格と戯画”の相違についての詳細な説明は、『ジョウゼフ・アンドルーズ』の序文を参照」と注釈。この小説の著者フィールディングは、その序文の中で、喜劇的小説と道化の相違は、絵画での喜劇的歴史画と戯画との相違に匹敵する、と述べた。なぜなら道化とは奇怪なもの、不自然のものの陳列にすぎず、その意味で歪曲、誇張、放縦な画(戯画)と同列である。ところが喜劇は自然に忠実であり、自然の正しい模倣から生まれる、という。ホガースが、この序文に共鳴したのは、彼が戯画作家ではなく、喜劇的歴史画家であるという自負からである。(森洋子「ホガースの銅版画 ―英国の世相と諷刺―」岩崎美術社 より引用)

 森によれば、ホガースは自分の絵を「自然に忠実な模倣」を行なうものだと考えており、カリカチュア(戯画)のような誇張や歪曲とは一線を画そうとしている。この時代は、人相学や骨相学などが流行して信じられていた時代でもあり、ホガースはそれらの研究成果も踏まえている。後にホガースが執筆した美術理論書「美の解析」(中央公論美術出版から昨年翻訳が出た)においては、人相学を過度に信じる態度は退けられているが、基本的な考え方は同じである。自然の持っている原理を探りあて、それを反映するための表現の技術が問題にされている。「美の解析」の中でホガースは、まずは現実をきちんと見ることが重要であり、そこから美のイデアを見出して表現する原理を手に入れるためには、優れた美術家であるべきだと述べている。「この主題の諸要素を次々と探究していくを可能とするためには、絵画の技芸全体(彫刻だけでは不十分)にわたり相当秀でており、具体的な知識を有していることが不可欠」(宮崎直子・訳、中央公論美術出版 より引用)

 ホガースは一般的に「諷刺画家」として評価されることも多いが、その「諷刺画」という言葉が「カリカチュア」と言いなおされると、現代の日本に生きる我々には、異なった印象で受けとめられやすい。諷刺という、絵の社会的な機能の問題ではなく、戯画という描画法の問題に感じられてしまうのだ。その結果、ホガースの絵柄を「カリカチュア=戯画=歪曲・誇張された絵」と受けとめてしまう。だが、ホガース自身は、そのような「不自然な表現」を明確に否定している。

 一方、テプファーは自分の絵をどう考えていたのだろうか。

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2008.05.18

19■ホガースの連続画【2】「Before and After」をめぐって

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 ならばホガースの作品は、コマ割りまんがの源流のひとつとしては評価するに値しないのだろうか。デイヴィド・カンズルは、コミック・ストリップの歴史を考える上で、ホガースが連作として描いた最も初期の絵画である「Before and After(ことの前と後)」(1730年)に注目している。この2枚組みの油絵は、「ことの前と後」を示すことで、その間に起きたことを描かずに、受け手に想像させる表現をとっている。(右の「リンク」参照)
 連続した絵の関係性自体が、見る者の内に意味を生み出すという点では、確かにこの2枚の絵は、テプファーやその後の時代につながるものを感じさせてくれる。

 この後にホガースは、この手法を「発展」させて、6枚組みの「遊女一代記」(1732年)を描き、連続物語版画という手法を定着させ、次々と作品を生み出していく。その手法の「発展」がいかなるものであったかは、同じ「Before and After」というテーマで描いた別の2枚組みの油絵(1730-31年)と、その版画(1736年)を見て比較すると、よりわかりやすいだろう。
 先の「Before and After」と近い時期に描かれた、もうひとつの「Before and After」は、舞台を室内に移して、やはり男女の「ことの前後」を描いている。室内であるだけに、象徴的な意味を持たせるための小道具や背景が豊富に描かれ、我々がよく知るホガースらしい情報量の多い図案となっている。5年ほど後に描かれた版画では、さらに情報量が上がり、部屋の中にかかった絵が象徴的な意味を補強し、他の連続物語版画ときわめて似た表現が用いられている。このようなホガースの版画では、画面のあらゆる場所から、さまざまな「意味」が噴出してくる。
 それに比べると、野外を舞台にした第1バージョンの「Before and After」は、画面の中の情報量が乏しく、後年のホガースの表現に慣れた目で見ると、どこか物足りない気持ちになる。ワトー調の絵のパロディを意識して描かれたといわれるこの絵では、背景は象徴的な意味が薄く、単なる背景に近い印象を与える。「キャラクターと、その背景」というシンプルな構成の絵のようにも見える。
 ホガースは、この第1バージョンの絵を版画化していない。ホガースの選んだ手法の「発展」とは、1枚の絵の中の情報量を上げていくことであり、そのプロセスの中で、この第1バージョンの図案は捨ておかれるのだ。

 1枚の絵の情報量が上がると、それを見る者の「滞空時間」は長くなり、その絵の中で成立する意味も増えていくことになる。その分、絵の自立性は高まるが、それに反して「連続性」の効果は、相対的に印象が弱まることになる。
 野外を舞台にした「Before and After」第1バージョンが、後の「コマ割りまんが」的なダイナミズムに近いものを感じさせる理由は、おそらくそのあたりに理由があるのではないか。1枚の絵の情報量が比較的低い分だけ、連続性の効果が前面に出てきて、見る者に「2枚の関係が生み出す意味」をより強く感じさせるのだ。
 後の連続物語版画シリーズも、本来ならば同じような連続性の効果を持っているはずであり、実際さまざまな「ことの前と後」が表現されている。しかしそれは、1枚ごとの画面が生み出す膨大な情報量に押し流されて、飲み込まれかけている。
 それは、版画を販売する上での必要性もあってのことだろう。ビジネスの面からすると、1枚1枚が面白く見られ、商品価値があることが重要だ。しかしその結果、ホガースは「連続性」という新しい質の効果の追究よりも、1枚1枚に意味の量を盛りこんで補強し、塗り込めていくことに力を注いでいく。「Before and After」第1バージョンの方向性が持っていたはずの可能性が、それ以上振り返られることはなかった。

 後のテプファーにおいては、1コマ1コマには商品価値を求める必要はなく、むしろラフな描き方で「かきとばしている」。だからこそ、見る者はひとつひとつの絵には執着することがなく、結果的に、連続性そのものがむき出しになって前面に表われる。絵そのものが語るのではなく、絵と絵の関係が語っているのだ。
 エルンスト・ゴンブリッチは、テプファーの戯画的な表現について、以下のように述べている。

かかる省略的な様式を使用する美術家は、自分が割愛しているものはつねに観照者の方で補足してくれるものと当てにできる。練達の技術で完璧に仕上げられた絵画では、どんなわずかな欠陥でも混乱のもととなるだろうが、テプファーとその模倣者たちの慣用語では、そのような省略の表現も話術のうちとして読んでもらえるのだ。(瀬戸慶久・訳「芸術と幻影」岩崎美術社 より引用)

 観照者の補足とは、つまり、生産力を持った読者ということであり、それは戯画的な画風の特徴であるとともに、コマ割り表現の特徴でもある。
 テプファーのコマ割り表現が、あのようなものとして成立するためには、単にコマ割りの技法的な問題にはとどまらずに、その中に描き込まれる絵の情報量の少なさ自体も、重要だったのだ。「関係について」の項で述べたように、「コマ割り表現によって伝わるものは、そこには描かれていない。」 テプファーにおいては、1コマ1コマの絵の相対的な「無意味さ」こそが、連続による生産性を引き立てていた。それに対してホガースは、1つ1つの絵そのものに饒舌に語らせようとしていく。

 テプファーの革新性は、1コマ1コマの無意味さにある。

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2008.05.15

18■ホガースの連続画【1】

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 テプファーのコマ割り表現について、前に以下のことを述べた。「われわれがテプファーのなかに見出すのは、生産力を持った新しい読者というイメージである。」
 テプファーの特徴をこのように考えた上で、改めてそれ以前の時代の作品を検討してみると、その先駆的なものが見えてくる。

 一般的に、ヨーロッパのまんがの歴史を紹介した本では、18世紀の先駆者としてウィリアム・ホガースを挙げるものが多い。連続版画によって物語表現を行なったとして知られるホガースは、コマ割り表現は行なわなかったものの、後に物語まんがが生まれる下地を作ったと評価をされることが多い。
 実際にホガースの連続版画を見てみると、有名な「遊女一代記」(6枚連続、1732年)にしろ、「放蕩一代記」(8枚連続、1735年、原題「レイクの遍歴」、「放蕩息子一代記」などとも訳されている)にしろ、「当世風結婚」(6枚連続、1745年)にしろ、たしかに物語的であるとも言えるが、むしろそれらは戯曲的であり、演劇的という印象の方が強い。単に物語的ということならば、ホガース以前に多数存在しているし、しかもそれらの多くはコマ割り表現さえ用いている。
 実際ホガース自身、自作の特徴を以下のように述べている。

私は自分の主題を劇作家のように扱おうとして来た。私の絵はすなわち私の舞台である。私の男や女は私の役者であり、彼らは一定の演技やしぐさで黙劇をやっているのである。(ジョン・アイアランド「ホガース画伝」より/櫻庭信之「絵画と文学 ホガース論考」(研究社)本文所収)

 ホガースの連続版画は、舞台劇を模した表現といった方が的を得ている。6枚組の版画は、すなわち6幕ものの芝居であり、それぞれの幕の象徴的場面が、多数の役者が登場して演じられている。そういう意味では、舞台劇のダイジェスト風の作品である。
 ホガースの連続版画の特徴は、演劇的な手法で人物を生々しく描いたことや、徹底的に時事風俗を取り上げて風刺し、それをわかりやすい表現で版画にし、広く出版・販売して、庶民の支持を得たことにある。そういう意味では、大衆文化としての物語表現やジャーナリズムの発達に大きく影響しており、まんがの源流をなした人のひとりであることに間違いはない。だが、連続物語版画を描いたというだけで、それをすぐに、「コマ割り表現」の歴史に関連づけようとするのは、無理がある。繰り返すが、その頃すでに「コマ割りされた多数の絵によって物語を表現する」形式自体は、広く行なわれていたのであり、それに比べるとホガースの形式は、外見的には旧来の絵画や版画の表現を複数並べたにすぎない。
 「複数の版画を並べたホガースの物語表現 → 1枚の中にコマを並べたテプファーの物語表現」というような、単純な発達史観で考えてはならない。そのような記述をさまざまな本で見かけるが、それはある種の先入観にもとづく図式化された考え方であり、実際の事情はもっと複雑である。

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2008.05.12

17■テプファーと観光

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 ロドルフ・テプファーの著作のうち、1冊だけ日本で翻訳出版されたものがある。「アルプス徒歩旅行 テプフェル先生と愉快な仲間たち」だ。まんがではない。テプファーの描いた挿絵は入っているが、内容は紀行文だ。1842年にテプファーが学生19人とアルプスを24日間にわたって歩いた経験が、1冊の本にまとめられている。
 これが日本で出版された理由は、もちろん「あのまんが家のテプファーの著作だから」というわけではない。歴史的な紀行文として、その内容が評価されたからだ。
 日本では今のところ、テプファーは紀行文作家としては紹介されていても、まんが作家としては、ほとんど知られていない。
 この著書の歴史的な意義は、テプファーが必要もなく旅行に出て、紀行文を書いたところにある。テプファーは、単に「観光」に出かけたのだ。それは、当時新しい風習だった。
 訳者の加太宏邦はこの本のあとがきで以下のように書いている。

 (前略)テプフェルは、平地では、船や馬車を利用するとしても、基本的には徒歩旅行の積極的な意義を強く主張し、実践している。そのため、たとえば、その快感だけでなく、苦痛も含めての足をつかうことの多面的な意義や、徒歩と思索の関係、視界の違いからくる景観の質の違いとか、寒冷、炎暑、風雨、あるいは空腹、汗、渇き、高所恐怖などが具体的な体験に則して、じつに細かく観察されている。さらに、飲物、食事、靴、杖、服装などについても考察がめぐらされている。その意味で、本書は、今日の大方の観光旅行者が忘れてしまった、「肉体」としての旅人をもう一度考えさせてくれる貴重な証言に満ちている。
 もう一つ、この旅行で注目すべきことは、古代から人類が行ってきた様々な旅(巡礼、通商、征服などの有目的移動)とは根本的に性格の異なる新しい旅の形態、すなわち観光旅行が行なわれているということである。テプフェルとその生徒たちはまだその概念が未熟であった「観光旅行」を、きわめて自覚的に、そして積極的に実施している。
 じつは、イギリスに始まった「観光」という概念はそれほど古いものではない。たとえば、〈観光〉tourisme(この語も英語から発生するが)というフランス語の初出は、辞書などによると、本書の旅の一年前、一八四一年であって、もちろん、一般化するのには、さきに触れた、鉄道の発達と関係して、さらに十年か二十年先のことになる。ついでに言うと、観光の概念を形容詞としてもちいる〈観光的、あるいは観光にかんする〉というtouristiqueという語は、じつに、このテプフェルの創作語だったのだ。ちなみに、有名なガイドブック、ベデカーのDie Schweiz(スイス)が出版されたのは一八四四年である。
 本書のなかにしばしば登場するイギリス人観光客の挙動や、インターラーケンの描写は、まさに観光の曙を生々しく伝えている。しかし、一般的には、何を観光の対象とするのか。どうやって旅をするのか(コースの採り方、食事、宿、距離、天候、荷物などの点検)という基本が、まだ旅行者の手に委ねられていた時代でもあったのだ。今日の旅行者のように、すでに制度化された観光という行為をなぞるのではなく、テプフェルの旅には、行く先を決定し、実地に見聞した上で、その行為自体が観光として成立するかどうかという問いかけがあった。(中略)
 また、本書で何度か論じられる風景論や風景画論とでも言える章句に見られる視点は、風景というもののいわば「発見」を模索している状況を窺わせる。たとえば、テプフェルは、マッターホルンになぜ人は感心するのかを長々と考察する。現代の観光客が出来合いの名所としてしか見なくなった、いわば隠蔽されてしまった風景を、考え直させてくれる視点を提供してくれているのである。(加太宏邦・訳「アルプス徒歩旅行 テプフェル先生と愉快な仲間たち」図書出版社 より引用)

 訳者の加太は、テプファーが「見る」あるいは「知覚する」という文化が変容していく時代のただ中にいて、それを体現していた先兵であったことを、観光という面から指摘している。
 宗教や貿易や戦争などの目的のために、手段として旅行するのではなく、ただ旅行を目的として旅行すること。何かを見て、身体で体験するためだけに、旅をすること。それは、きわめて近代的な新しい行為だったのだ。
 単に目に見える光景でしかなかったものが、風景として新たな価値を持つこと。つまり、何かを見たり感じたりする人間の側が、そこに新たな価値を見出して、価値を生産すること。ここにも、「生産力を持った新しい観光者」というイメージを見つけることができる。
 テプファーのまんが表現について考えようとするとき、それは単にまんがだけの問題にとどまらない。彼にとって「見る」「知覚する」ということが、どのような意味をもっていたのかを、時代性の中で検討する必要がある。

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2008.05.08

16■まんがとアニメにとっての1820年代

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 前項で紹介したように、ジョナサン・クレイリーの論ずる「視覚の身体性」というパラダイム・シフトは、ゲーテが「色彩論」で問題にし、1820年代に本格的に始まった目の残像現象の研究によって進行していく。この研究は、歴史的に見るならば、動画の基本原理の発見としても知られる。
 円板を回転させて表裏の絵を合成する実験に用いられ、やがて玩具として広く知られていくソーマトロープは1825年に発表されている。1832年にはジョゼフ・プラトーによってフェナキスティコープが発表され、本格的に「絵の動き」が表現される。やはりこれも玩具のフェナキスティスコープとして普及してゆき、この後競うようにして動画技術が開発されていく。
 後の映画やアニメーションの基本的な原理は、1820年代に発見され、1830年代に本格的に形を整えて、広く人々に知られていったのだ。つまりこれは、テプファーが1820年代に初めてコマ割りまんがを描き、1830年代に出版されて広く人々に知られていくのと、まったく並行する歴史だということになる。
 コマ割りまんがとアニメーションは、そのルーツをともに1820年代に持ち、並行して発達していった、といっていいだろう。
 これは、たまたまの一致ではない。両者は、同じ時代の視覚文化の変動を背景に生まれたという点で、兄弟のようなものである。
 まんがとアニメは、現在も非常に近いジャンルとして親しまれているが、歴史的に見ても、そもそも極めて近いところから生まれてきたものだといえる。

 ちなみに、同じく1820年代に生まれ、1830年代に広く人々に知られていったものとしては、写真がある。ニエプスが写真撮影に成功したのが1820年代で、ダゲールによって写真装置(ダゲレオタイプ)が完成して発売されたのは1839年である。テプファーには、ダゲレオタイプに関する著書もある。

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図版をアップしました

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テプファーとロートレックの作品例をアップしました。右の「図版」からリンクしています。

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2008.05.06

15■テプファーの時代と視覚の変容

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 そこに描かれているものが伝わる、というのは、我々にとって普通の考え方である。一方、そこに描かれていないものが伝わる、というのは、やや奇異なことに聞こえる。しかし実際には、我々が普段あたりまえに行なっていることだ。前項で述べた「関係」が、それを支えている。
 このことは、テプファーのコマ割り表現とそれ以前のコマ割り表現の違いを考える時、重要な手がかりとなるだろう。この問題を、少し違う角度から考えてみる。

 「そこに描かれているものが伝わる」ということ、つまり自分がAを知覚したならばそこにAがある、という知覚と実在の対応関係は、本来ならば我々の日常感覚を支える大きな柱だったはずだ。そこに木が見えたら、そこに木がある。声がしたら、そこには誰かがいる。この対応関係が成立しなかったら、我々はこの世界でまともには生きていけない。しかし一方で人間の知覚は、ありもしないものを表象する。光を見た後で目をつぶると、そこにはないはずの残像や、パターンの乱舞が見える。キーンという音が聞こえると、現実の音なのか、耳鳴りなのか、わからない。つまり、実在と自分の表象は、素朴な反映関係にはないということだ。そこで、両者を媒介している「身体」というものが問題になってくる。
 ジョナサン・クレイリーはヨーロッパの視覚文化の歴史を研究する中で、目の残像現象の研究が本格的に始まり生理学という学術分野が出現した1820年代を、このような対応関係が崩れた大きな歴史の変換点ととらえている。その論議は著書「観察者の系譜」(以文社)で詳しく述べられているが、その要旨は「近代化する視覚」の中で、カメラ・オブスクラを思考のモデルに用いながら、次のように述べられている。

 (前略)17、8世紀におけるカメラ・オブスクーラについて述べておこう。カメラ・オブスクーラは、科学者にとっても芸術家にとっても、経験主義者にとっても合理主義者にとっても、何よりもまず客観的真理に近づくことを保証する装置であった。カメラ・オブスクーラは、経験的現象を観察するモデルとしても、反省的に内観や自己観察をするモデルとしても重要だったのである。たとえばロックにとって、カメラ・オブスクーラとは、観察主体の立場を空間的に可視化する一つの手段であった。ロックにおける部屋のイメージがとても重要なのは、それによって、判事あるいはその資格を有する人の部屋の中を意味する「カメラの中(in camera)」という言葉が、17世紀に何を意味していたかが明らかになるからである。ロックは観察者の受動的な役割の上に、より権威のある法的権限を加えた。つまり、外部の世界と内部の表象との対応を保証し警備する権限、そして秩序に反するものや手に負えないものすべてを排除する権限を、ロックは観察者に与えたのである。(中略)
デカルトにとってカメラ・オブスクーラとは、観察者が「もっぱら精神の知覚によって」世界を知る方法を説明するものであった。(中略)カメラ・オブスクーラは、世界をありのまま客観的に見ることを土台に知を築こうとするデカルトの探究に、ぴったり合っている。カメラの孔は、数学的に規定される一点に対応している。そして、その一点から世界は論理的に演繹され、表象される。自然の法則(すなわち幾何学的光学)にもとづくカメラ・オブスクーラは、こうして世界に対する絶対的な視点を与えてくれた。身体に左右されるほかない感覚的証拠は拒否され、この単眼用の機械的装置によって作り出された表象こそが、疑う余地なく正しいものとされたのである。(中略)
 驚くべきことに、19世紀前半、突如としてこのパラダイムは崩れさり、人間的視覚というまったく異なるモデルに取って代わられた。この転換において、視覚をめぐる言説と実践のなかに、「人間の身体」という新しい用語が導入された。(中略)1810年に出版されたゲーテの『色彩論』は、視覚における中心がまさに身体になったことをもっとも雄弁に語っている(これについては別の場所で詳しく論じた)。この著作の重要性は、光の構成についてニュートンに反論したことにではなく、主観的視覚というモデルを明確に記していることにある。このモデルには、濃密な生理学的身体が、視覚を可能にする下地として導入されている。われわれがゲーテのなかに見出すのは、生産力を持った新しい観察者というイメージである。その観察者の身体は、視覚的経験を生み出すさまざまな能力を持っているのである。したがって、そのような視覚経験は、観察主体の外にあるいかなる対象にも対応してはいない。(中略)
網膜残像は人をあざむく、幽霊のような、実在しない錯覚であると、かたづけられていた。ところが、かつては身体の危うさや不確かさの証例になっていた一連の経験が、19世紀前半になると、視覚を成立させる実定性になった。だが、おそらくさらに重要なことに、視覚を生産する身体を特権化することによって、カメラ・オブスクーラが前提としていた内部と外部との区別が崩壊し始めた。(中略)知覚と対象とが直接的に対応するという考えは揺らぎ、1820年代には、自律的な視覚のモデルが成立したのである。(ハル・フォスター編「視覚論」(平凡社)所収より引用)

 知覚と実在の対応関係の崩壊という、時代精神の変容が、視覚の身体性という面から指摘されている。
 ちなみに、テプファーが「そこに描かれていないものを伝える」方法として、初めてコマ割りまんがを描いたのは、1827年である。それは、まさしく上記のような時代精神の変容が進む中で描かれたということになる。さらに、そのテプファーの作品を高く評価し、出版の後押しをしたのが、ほかならぬゲーテであるという事実は、この時代のヨーロッパの視覚文化の変容が、テプファーの表現と密接な関連を持っていることを考えさせずにはいない。
 上のクレイリーの文章を、以下のように書き換えておく。「われわれがテプファーのなかに見出すのは、生産力を持った新しい読者というイメージである。」

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2008.05.05

14■関係について

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 前項で引用した文章の中でドゥルーズは「接続詞を解放し、関係一般について考察した人は、イギリスとアメリカの思想家以外にはほとんどいません。」と述べている。その思想家のひとりと思われるイギリスのヒュームについて、ドゥルーズは別のところで以下のように書いている。

ヒュームの独創性、ヒュームの数ある独創性のひとつは、「関係は、関係する項に対して外在的である」とヒュームが力を込めて主張するところに由来する。
(中略)
関係とは何か。関係とは、私たちを、与えられた印象や観念から、現実には与えられていない何かの観念へと移行させるものである。たとえば私は何かに似た何かを思考する。ピエールの写真を見ると、私は、そこにいないピエールのことを思考する。与えられた項の中に移行の根拠を探し求めてもむなしいだろう。関係それ自体は、連合の原理、隣接の原理、類似の原理、原因性の原理と呼ばれる諸原理の効果であるし、これら諸原理がまさに人間の本性を構成する。人間精神における普遍的ないし恒常的なものとは、決して項としてのあれこれの観念ではなく、たんに特定の観念から別の観念へ移行するその仕方であるということ、これが人間の本性の意味するところである。(小泉義之・訳「ヒューム」(河出書房新社)「無人島1969-1974」より引用)

 関係は、コマとコマの間にある。関係が、ヒュームのいうように、項(コマ)に対して外在的であるとするならば、「与えられた項の中に移行の根拠を探し求めてもむなしい」ということになる。つまり、コマとコマの関係が生み出すものの根拠は、コマの中にはない。むしろ、それは人間の本性として考えるべき問題となる。
 ドゥルーズは続けて、原因性の関係を取り上げて、こう書いている。

 原因性は、私を、私に与えられた何かから私に決して与えられることのなかった何かの観念へ、さらには、経験には与えられない何かの観念へと移行させる。たとえば、書物のなかの記号から出発して、私はシーザーが生きていたと信ずる。太陽が昇るのを見て、私は明日太陽が昇るだろうと語る。水が100℃で沸騰するのを見たことで、私は水が必ず100℃で沸騰すると語る。ところが、明日、常に、必ずといった語法は、経験には与えられえない何かを表現している。(中略)原因性の関係は、それによって、私が与えられたものを超越してゆく関係、私が与えられたものや与えられうるもの以上のことを語る関係、要するに、それによって、私が推論し私が信ずる関係、私が何ごとかを待ち受けて予期する関係である。(同)

 現代の我々が普段経験しているコマ割り表現の生産性とは、このような「関係」のことであろう。コマ割り表現によって伝わるものは、そこには描かれていない。そこに描かれてあるものを超越していくこと、そこに描かれてあるもの以上のことを推論し信じることが、コマ割り表現を読むことである。
 超越である以上、そこに描かれてあるものの中に根拠はない。もし、それでもあえて何かを探すとすれば、テププァーが無造作に引いた1本の線が目に入ってくるほかないだろう。「と」としての線が。

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2008.05.04

13■「と」としての線

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 ここまで述べてきたように、テプファーの行なったことは、枠のついた絵と言葉を時系列や物語に沿って多数並べたというだけのことではない。絵を区切りながら描くという行為がなされている。単数でも複数でもない絵を区切り、その絵を単数化すると同時に、複数という事態を呼び入れること。まだ2番目の絵はないが、それを呼び入れるものとしての「単数」となること。
 そのとき、区切るために引かれた線は、必ずしもコマの周りの境界線として「囲み」になる必要はなく、ただ区切るという機能が働けばよい。
 そのような複数を呼び込む線の機能は、言語でいうならば「と」(et,and)であると考えられる。テプファーの描法は、ある絵を描いた後に線(=「と」)を書き込んで、「…と、…と、…と、…」と次々に絵を描き連ねていくやり方だ。ジル・ドゥルーズはゴダールの映画について語りながら、「と(et,and)」について以下のように述べている。

ゴダールで重要なのは(中略)接続詞の「と」なのです。「と(ET)」の用法はゴダールの核心にかかわる重要問題です。なぜ重要かというと、私たちの思考全体が、おおむね動詞の《être》、つまり「ある(EST)」をもとにして成り立っているからです。哲学は、(「空は青色である」といった)属性判断と(「神がある」といった)存在判断をめぐる議論によって、そしてこれが還元可能かどうかという議論のせいで、まったく身動きがとれなくなっている。ところが、この種の議論ではいつも「ある」という動詞が使われるのです。三段論法を見ればわかるとおり、接続詞ですら、動詞の「ある」と釣り合うように使われている。接続詞を解放し、関係一般について考察した人は、イギリスとアメリカの思想家以外にはほとんどいません。ともあれ、関係判断を一個独立した類型に仕立てあげれば、この類型がいたるところに入り込むということがわかってくる。この類型はいたるところに浸透して、あらゆるものを変質させるのです。「と」は特別な接続詞でも、特殊な関係でもなくなり、すべての関係を巻き込むようになる。そして「と」の数が増えれば、それにあわせて関係の数も増えていく。「と」はあらゆる関係を転覆させるだけでなく、「ある」という動詞なども残らず転覆させてしまうのです。「……と……と……と」とたたみかける接続詞「と」の使用は創造的にどもることにつながり、国語を外国語のようにあやつることにもつながる。そしてこれが、「ある」という動詞にもとづく規範的で支配的な国語の使用と対立するのです。
 もちろん、「と」は多様性であり、多数性であり、自己同一性の破壊でもあるわけです。(中略)多数性は、辞項の数がいくら増大しようとも、けっして辞項そのもののなかにはないのだし、辞項の集合や総和のなかにもありはしない(中略)。多数性は、要素とも、集合とも性質が違う、この「と」自体のなかにあるのです。(中略)
「と」というのは、ふたつのもののうちどちらかひとつを指すのではなく、ふたつのものの「あいだ」にある境界を指しているのです。どんな場合にもかならず境界があり、逃走の線や流れがあるわけですが、ただいかんせん、これがもっとも知覚しにくい部類のものであるため、実際にはなかなか見えてこない。しかし、事物が生起し、生成変化がおこり、革命が素描される場は、この逃走線にあるのです。(宮林寛・訳「記号と事件」(河出書房新社)所収「『6×2』をめぐる三つの問い(ゴダール)」より引用)

テプファーの描法は、「と(et,and)」としての区切り線を引いて、その先を生成していくやり方であり、「創造的にどもる」方法であることを感じさせる(いびつなコマの形や、はみ出したり空白があいたりする文字スペースのバランスの悪さは、どもりながら描いていることを思わせる)。一方、18世紀までの多くのコマ割り表現は、「ある(est,be)」によってひとつひとつのコマの絵の意味が支えられており、他のコマによって自己同一性が揺るがされることはない。
テプファーの表現では、どのコマも中心化されない。いったん中心化されたかに見えたコマは、次のコマにより中心であることを奪われ、次々と中心化が先送りされる。それに比べると、それ以前のコマ割り表現は、特定のコマが中心化された体系だったり(たとえば祭壇画や曼陀羅的な表現)、外部の物語の下でどのコマも自立的な役割を担って、自らを支える中心であったりするといえるだろう。

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2008.05.01

12■テプファーのコマ割り表現

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 15世紀以降のヨーロッパのコミックストリップ的表現を研究しているデイヴィド・カンズルは、「絵と文字によるコマ割り表現」の歴史を調査しており、著書「初期のコミックストリップ」で数多くの例を紹介している。それらを参照するかぎりでは、18世紀までのコマ割り表現のほとんどは、あらかじめ領域として独立した絵を、複数集めて並べているように見える。ひとつひとつの絵は、物語や意味に支えられながら、他の絵から独立して成立している。多くの場合、絵は周囲に配置された言葉によって意味が明確化し、支えられている。それぞれの絵は、一定の意味と一対一で対応して、自足している。そしてそれらを複数集めて併置することで、物語や意味が足し算的に増えていき、場合によっては時間的、空間的な展開を表現する。
 一方テプファーの描くひとつひとつの絵は、必ずしも独立した意味を持たず、自足しない。あるコマの絵の意味が、その前後のコマの絵に支えられていたり、後のコマによって意味が刷新されたり、新たな意味が生み出されたりする。言葉も、対応する絵の意味を最終的には確定できずに、次のコマとの関係の中で、絵とともに翻弄されていく。
 テプファー以前の表現では、原則としてそこに描かれているものがすべてである。だから、たとえば3つのコマの足し算A+B+Cによって、ABCという物語の展開が表現される。一方、テプファーの表現では、読むことによって、そこに描かれていない意味が生成する。A+B+CによってDが表現される。
 もちろんテプファーの作品でも、多くの場合、A+B+CによってABCが表現されている。しかし、それだけでは収まらない剰余が生まれている。コマとコマの関係性自体が意味を生産するのだ。
 このことを、後世の映画の用語を用いて、モンタージュの効果として考えることもできる。テプファーの表現と、それ以前との違いを明らかにする観点として、これは有効な指標のひとつになる。

 ただしテプファーの表現の特徴は、(狭義の)モンタージュという言葉で説明しつくせるものではない。重要なのは、モンタージュをも可能にした描き方そのものである。
 先に述べたように、テプファーの表現は、絵を線で区切ることで単数化し、同時に「潜在的な複数」を呼び込んでいく連鎖だと考えられる。1コマを描いた先は、未決定の未来に向けて開かれている。そしてそれが顕在化すると、さらに次の潜在的な複数を呼び込む。そのようなダイナミズムの中で、物語が生成されていく。
 だからテプファーの作品では、コマ表現が物語る。一方それ以前の表現は、物語がコマ表現される。モンタージュは、コマ表現が物語る際のレトリックのひとつである。

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