21■絵柄について【2】
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テプファーの考え方は、ホガースとはかなり異なっている。
1845年に発表された「人相学についてのエッセイ」の中でテプファーは、「文学」に対する「絵物語」の優位性を説き、ホガースの連続版画を称賛している。しかし、絵をいかに描くかという点では、対照的な姿勢を見せる。テプファーは人間を描くことについて、ホガースが追い求めていたような、自然な美を忠実に表現するための卓越した技術を、不要だと述べる。
著作の中で度々テプファーについて言及しているエルンスト・ゴンブリッチは、このエッセイについて以下のように述べている。
この媒体を、善意は持ち合わせているものの絵に未熟な教育者に勧めるため、テプファーは、あなた方でも、自然を参照したり、モデルを使ってデッサンを習わずとも絵画の言語が引き出せると、自分の考えた心理学的発見を講評する。線画は純粋に慣習的な象徴的表現なりと彼はいう。(中略)
絵物語の語り手にとって必要な一事、それは人相と人間の表情についての知識である。要するに、納得させるに足る物語の主人公を創作し、その主人公が出会う人びとに性格を与えなければならないし、彼らの反応を伝達し読みとれる表情によって物語の内容を表わすようにしなければならないのだ。このためには、美術学校が美術家の卵たちに課しているテプファー流に言えば楽しい授業、つまり、石膏像を何年もデッサンし、その眼、耳、鼻を描いたことのある熟練した美術家というものが必要ではないだろうか。テプファーにとって、こういった修練は一切時間の浪費である。絵物語に必要な実用的人相は、人間などには目もくれない世捨人によってはじめて学べるものなのだ。必要なものは、画材と何がしかの忍耐力のみ。というのは、どれほど不適当で子供っぽい拙い顔の絵でも、それが描かれたものである限り、性格を持ち表情を持っている。そのようなわけで、これは知識や芸術とはまったく無縁のものであってみれば、誰だって、やってみたいと思っている人ならば、表情に宿っているところの特性をきっと見つけ出せるに違いないのである。そこでまず取組むべきは、走り書きを組織的に変えて行くことであって、もしも最初のモデル人形(原文に図あり)が間が抜けていて取りすましているように見えるのならば、眼をいくらか鼻に近づけて描き直してみると、そのように見えなくなると思う。こうして、素朴な特性をただ転換してみるだけのことで、孤独に生きるわが隠者氏は、これらの個々のもの、ならびにその組合わせが作者や観照者の眼にどのように映ずるかを発見するだろう。同じようにして、鼻とか口のちょっとした実地練習から、基本的な徴候がどんなものかがわかり、この段階から出発して、いたずら書きを繰返すだけで、いろいろな役の登場人物たちを創り出せるところまで上達できるのだ。テプファーの言によれば、自分の創作した物語に登場する主人公たちは、こんな工合にしてペンの戯れから生まれたのだという。
絵物語には、もう一つだけ手だてが必要だ。私たちは、性格を示すものとしてのテプファーのいう「パーマネントな特性」と、情動を示すものとしての「パーマネントでない特性」の区別を知らなければならない。パーマネントな特性についてテプファーは、その当時、性格の根本を示す何か際立ったものはないかと探究していた骨相学者たちを手玉にとってからかっている。十二人の横顔どれもが(原文に図あり)、同じひたい、つまりかのベルヴェデーレのアポロ像と同じひたいをしている、と彼は指摘している。だが、ゲシュタルト(形態)がかくも千差万別なところをみて頂きたい。(中略)
テプファーは、心理学者なら表情の「最小限手がかり」とでも呼びそうなものを探しているわけで、この種の手がかりに対して、私たちは現実・芸術のいかんを問わず反応を示すのである。そのような手がかりが組織的に変えられた場合に、いたずら書きではなくて自分自身がどんな感じを受けるかを発見しようとして、テプファーは手がかりを人相知覚の秘密をさぐるための道具として使用しているのだ。(前出「芸術と幻影」より)
この文にある「どれほど不適当で子供っぽい拙い顔の絵でも、それが描かれたものである限り、性格を持ち表情を持っている」という現象について、ゴンブリッチは他の著作の中で、それを「テプファーの法則」と呼んではどうかと提案している。「つまり人の顔と解釈できれば、どんなに雑に描いた形象もそれ自体でなんらかの表情や個性を表すという命題を彼は立てたのである」(「イメージと目」より)
テプファーは、まず絵から始めている。現実から始めようとするホガースの考え方とは、スタートラインからして違っている。
人相学は、人間の性格や能力などが顔に反映しているという前提に立って、人相を分析しようとしたものだ。ヨーロッパでは古くからある考え方だが、テプファーの時代には、同じスイスのラファーターの著作「観相術」などが流行し、広く読まれていたようだ。また、同様に骨相学も流行しており、頭の骨の形状からその人の精神的傾向を明らかにできると考えられていた。ホガースも、このような考え方を取り入れて、性格の描き分けに利用しているし、テプファーの同時代では、グランヴィルなども同様の手法を取り入れている。しかしテプファーは、そのような「反映」の手法をとらない。
テプファーは、ホガースのいう「自然に忠実な〈キャラクター〉」を描こうとはしないし、かといって「不自然に歪曲や誇張された〈カリカチュア〉」を描こうとしているわけでもないように見える。自然であろうが不自然であろうが、そもそも現実の「反映」という考え方から、絵を描き始めてはいない。むしろ、絵の自律的な生成という考え方が強く感じられる。絵は、絵の次元の中で生まれ、形作られ、自足していく。現実を模倣するのではなく、絵の内部の力学で自己完結していくのだ。
もちろん、テプファーの作品には多くの現実が具体的に描かれており、現実の反映と無縁なわけではない。そもそも、絵の自律性を徹底的に追究しようとしたら、具象にとどまることはできない。実際、近代絵画はその道をたどっていった。たとえばテプファーと同じスイスのパウル・クレーの作品を思い浮かべれば、それがどこに行き着くかわかるだろう。クレーの線画作品は、思い起こせば、テプファーの「人相学についてのエッセイ」に添えられた図にきわめて類似した手触りを感じさせる。
絵を「1」にし、潜在的な「2」へ向かって生成していったテプファーの描き方は、コマ割り表現だけにとどまらない。絵そのものも、その場で生成されるものとして、強く意識されている。走り書きのような筆法には、そのような考え方が読み取れる。
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