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2008.06.08

23■テプファー作品の足跡

(ここにあるのは旧ファイルです。このページの内容を踏まえた、新たなテキスト「まんが史の基礎問題」をアップしています。トップページからアクセスして下さい)


 テプファーのコマ割りまんが第1作と言われる「ヴィユ・ボワ氏物語」は、1827年に執筆されている。その後テプファーは1829年に「フェストゥス博士」、1830年には「クリプトガム氏物語」を執筆し、周囲の人に閲覧させている。原稿には日付が入っているため、テプファーの執筆年代はおおむねはっきりしている。これらは、いわば「肉筆回覧誌」であって、出版はされていない。1830年には、知人のひとりが、「フェストゥス博士」と「クリプトガム氏物語」を借り出して、ゲーテに読ませたと言われている。
 初めて作品が出版されたのは、1833年の「ジャボ氏物語」。約800部が印刷されたと言われている。この作品はすでに1831年に描かれており、やはり肉筆回覧されていたが、出版されるにあたってテプファーは、全部を描き直している。そのため、現在一般的に読むことのできる「ジャボ氏物語」は、この第2バージョンの方である。
 第1作の「ヴィユ・ボワ氏物語」の方は、執筆から10年たった1837年になって、ようやく出版されている。同じ年には、先に「クレパン氏」も出版されているため、「ヴィユ・ボワ氏物語」はテプファーの出版第3作目ということになる。この時にもテプファーは作品をすべて描き直しており、単なる清書にはとどまらずに、細かい内容やコマ構成などが変更されている。さすがに10年の月日を隔てての描き直しであるため、作品の印象は一新されている。
 ところが、この「ヴィユ・ボワ氏物語」は、2年後に改作版が出版されることになる。この時までに、すでに広く評判を呼んでいたテプファーの作品は、ヨーロッパ各地で引き合いが多く、価格の安い海賊版が登場していたために、それに対抗する目的だったとする説もあるが、正確なところはわからない。この新版は、そっくり描き直されており、コマ構成なども変更されている。作品の扉ページには「second edition」と書かれている。
 というわけで、「ヴィユ・ボワ氏物語」は、合計3バージョンあることになる。
 1827年版(肉筆回覧バージョン)
 1837年版(出版バージョン)
 1839年版(改作出版バージョン)「second edition」
 現在、一般的に刊行されているのは、1839年版である。1827年版は、少なくとも1962年にフランスで限定出版されている。1837年版は、現在では一般に流通していないため、内容を確認するのは困難である。(この他に、テプファー監修の下で他人が版を起こしたバージョンも1846年に出ている)
 海賊版にも数バージョンあるようだが、どれも1837年版に準じて作られているようだ。当初は左右逆版で刊行されていたようだが、後に修正版が出ている。原本をトレースしたらしい忠実な模写によるコピーだが、枠線が定規で引かれた直線になり、文字も「走り書き」ではなく、ていねいな書体で入れられている。
 1837年版(またはその海賊版)は、イギリスでさらに別人の手で模写・補筆されて、「The Adventures of Mr. Obadiah Oldbuck(オバディア・オールドバック氏の冒険)」というタイトルに変更されて、1841年に出版されている。この海賊版はアメリカに渡り、1842年にニューヨークの出版社(Wilson and Company)によって、雑誌「Brother Jonathan」の付録として刊行されている。(ハードカバーのイギリス版とは異なって、ひもで中綴じされた薄い冊子に構成し直されており、内容もイギリス版の絵を流用した上で、文字を入れ直したと思われる)
 最近では、この本こそが、アメリカで刊行された最初のComic bookであるとする資料が多くなってきているようだ。テプファーの作品は、ヨーロッパに多くの追随者を生んだが、アメリカのコミック史においても、実は早くから重要な影響を与えていることになる。

 積み残したことは多いけれども、いずれまたの機会に。


 追記:「ヴィユ・ボワ氏物語」の変遷を「図版」にアップしました。

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2008.06.05

22■絵と現実

(ここにあるのは旧ファイルです。このページの内容を踏まえた、新たなテキスト「まんが史の基礎問題」をアップしています。トップページからアクセスして下さい)


 ホガースは現実から始め、テプファーは絵から始める。言いかえれば、絵は現実の反映なのか、それとも、絵が現実を想起させるのか。
 ゴンブリッチは、「肖像戯画の発明は、肖似性と等価の違いについての理論的な発見を前提としている」と述べている(「芸術と幻影」)。つまり、「現実とイメージが似ている」ことと、「現実とイメージが等価である」ことは、別であるということだ。「およそ美術上の発見というものは、肖似性の発見ではなくて、イメージに換算して現実を見させ、現実に換算してイメージを見させるような等価の発見なのだ。しかもここでいう等価とは、一定の相互関係に対する反応の同一性にかかわるものであって、部分部分の肖似性にはかかわりがないのである。」(同)
 この考えに従うと、等価とは「反応の同一性」であり、「見かけ」の形が似ている必要はない。つまり、「似顔絵」としては似ていない絵でも、それが誰かを想起させるならば、カリカチュアとして機能するということになる。
 一般的には、カリカチュアや戯画は「誇張」や「ディフォルメ」と考えられることが多い。つまり、写実を基本としながらも、ある種の変形や加工を受けて、特徴を際立たせたもの、という理解だ。しかしゴンブリッチが述べていることは異なる。それに従うならば、テプファーが行なっていたことは、線を引きながら、現実の顔や表情と「等価」であるようなイメージを探り当てようとしていた、ということができる。

 見かけの形状が類似していないにもかかわらず、等価であるものの代表格は、文字である。ということは、この場合の絵は、文字に近づいているということなのか。
 ジェイムズ・J・ギブソンは、認知心理学の立場から絵画を問題にし、この2つの方向性について検討している。1つは実物に忠実な絵であり、元の光景が与えたのと同じ「見かけ」の光線を発するように作られた絵を想定している。もう1つは、言葉と同様に理解されるものとしての絵だ。

表象に関するあらゆる議論の背景に、絵画とは何かということについて、二つの相矛盾する説がある。一方の説では、「絵画は、測点《station point》(或いは、知覚者)に達する光線束から成り、光線束の各々は、絵画の表面の色の点に対応する」と考えている。もう一方の説では、「絵画は、程度に差はあれ言葉に似た象徴群から成り、絵画は書かれた文に匹敵する」と考えている。一番目の説に従えば、絵画は、絵画から発する光線が実物から発する光線と同じである限りにおいて、実在する対象や光景を表し得る。二番目の説に拠れば、絵画が発する「言葉」が理解される限り、絵画は実在する対象や光景を表し得る。つまり、「我々は、子どもが書き言葉を学ぶのと同様に、絵画を”読む”ことを学ばねばならない」というのである。しかし一番目の説はこの考えを否定し、「子どもは、対象を直接に知覚できるようになるのと同時に、絵画に描かれた対象も知覚できる」と主張している。
これらの説は、ともにこのままでは極論に過ぎず、両者を何らかのかたちで結合できるのではないか。そう考える人もいるだろう。しかし、これら二説の折り合いを付けようとする企ては、成功しなかった。
(中略)
我々が「カリカチュアは歪んでいる」と言う場合、それは、描かれた人物がデフォルメされているとか歪んでいるという意味である。しかし、この言い方には、どこか的確でないところがある。カリカチュアは、描かれた人物と他の全ての人々とを区別する特徴には忠実であると言える。従って、表現という言葉を高次の意味で捉えれば、カリカチュアはその人物を真に表現していると言える。カリカチュアは、その人物を完全に特定するという意味で、写実的な描画やポートレート写真より明確にその人物に対応しているのである。そしてこの点こそ、絵画情報は光線に還元できるという説に真っ向から反対する最も強固な根拠である。
カリカチュアに見られる歪みは例外的な事態であって、絵画情報は光線に還元できるとする説も部分的には妥当ではないか、と考えてみた。つまり、カリカチュアは実際には表現の一種ではなく、言葉を用いるのと同様の、図を用いた象徴の一種だとするのである。1954年には私は、この折衷案に魅力を感じていた。画家が投影像の忠実度を犠牲にするとき、唯一それを正当化する根拠は、絵の慣習(即ち、誰もが賛同しなければならない規則)に従ったということではないか。絵画による実物の特定には、投影《projection》と絵画的規約《convention》という二種類しかないのではないか。ならば、カリカチュアは両者が入り交じったものと言える。しかしこの考えは、相容れない二つの概念を組み合わせただけのことだった。カリカチュアは、光学的投影と象徴による歪みとの混交などではなく、両者のいずれとも異なる何かである。カリカチュアは、実物の特定に役立つ情報を表示しようとする企てではないか、というのが、私の結論である。(ジェイムズ・J・ギブソン『直接知覚論の根拠』(勁草書房)所収「絵画において利用できる情報」より引用)

 ギブソンが最後に述べている「実物の特定に役立つ情報」は、おそらくゴンブリッチのいう「等価」に通ずるものである。(ギブソンの用いる「情報」という語は、アフォーダンスという考え方を前提としている。単なる感覚に対する「刺激」ではなく、知覚する者が価値として見出す情報を指している)
 ゴンブリッチが「等価とは、一定の相互関係に対する反応の同一性にかかわるものであって、部分部分の肖似性にはかかわりがない」と述べるのと同様、ギブソンも以下のように述べる。

カリカチュアでは、絵と実物とで、光エネルギーのコントラストは全く異なり、さらには形も異なるが、描かれた人物を特定する高次の情報は、双方の光配列に共通である。要するに、絵画から発する光配列と、外界から発する光配列とは、双方が同一の刺激作用を与えなくても、同一の刺激情報を与え得るのである。従って、画家であれば、画題の対象が生じる感覚を複製するのではなく、その対象に関する情報を捕らえて描くことができるのである。
上記の定義は、光学の再構築にだけでなく、新しい知覚理論にも基づいている。この理論では、同じ知覚が生じていても、それに伴う感覚は異なる場合があり得ると考えている。つまり、奇異に聴こえるかもしれないが、視感覚は、視知覚にとって必要条件ではないのである。知覚は、情報の抽出《pickup of information》に基づいているのであって、感覚が呼び覚まされることによるのではない。知覚と感覚とは,別個の過程である。(中略)
この理論の根幹を成すのは、光学的情報《optical information》という概念である。情報は、数学的な意味では、光配列構造の不変項《invariants》から成る。(同)

 「同一の刺激作用を与えなくても、同一の刺激情報を与え得る」「同じ知覚が生じていても、それに伴う感覚は異なる場合があり得る」 つまり、刺激が異なっていても、知覚が等価でありうるということ。絵の「見かけ」が現実と異なっていても、等価でありうること。その「根幹を成す」のは光配列構造の「不変項」である。(不変項:たとえば我々が1冊の本を見るとき、角度によって「見かけ」のイメージは異なる。細長い長方形だったり、平行四辺形だったり、さまざまな見え方をする。にもかかわらず、我々がそれを同一のものであると知覚できるのは、その本の「不変項」をピックアップしているからだ。変形を通じてこそ、不変なものは知覚される)
 ギブソンに拠るならば、テプファーが線を引きながら顔らしきものを探りあて、絵を生成していくとき、その表現の中には、人相や表情についての何らかの不変項が探り当てられ、示されているということになるだろう。

 「まんが的な絵」を考える上で、このことは重要な手がかりとなる。

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