まんが史の基礎問題04■コマ割りまんがの父・テプフェール
ロドルフ・テプフェールは、「コマ割りまんがの父」として知られる人物である。たとえば、アメリカのコミック・ストリップ史の研究で知られるデイヴィド・カンズルは、テプフェールに関する研究書を『Father of Comic Strip: Rodolphe Töpffer(コマ割りまんがの父:ロドルフ・テプフェール)』というタイトルで出版している。またフランスのバンド・デシネを研究しているブノワ・ペータースとティエリ・グルンステンは、やはりテプフェールに関する研究書として『Töpffer, l'invention de la bande dessinée(テプフェール、バンド・デシネの発明)』を出版している。彼らはテプフェールをコミック・ストリップの父であり、バンド・デシネの発明者であると考えている。
「コミック・ストリップ」と「バンド・デシネ」という語をどのように日本語訳するかは論議があるが、ここではひとまず「コマ割りまんが」ということばで考えてみる。「ストリップ」も「バンド」も「帯」を意味しており、元来はコマが並んだ帯状の形式を指している。新聞の1段分の横長の形がイメージされていると思われ、20世紀以降に使われるようになった用語だ。テプフェールは、「コマ割りまんが」という形式で本格的な物語を描き、その後のまんが表現に大きな影響を与えた点で、多くの研究者から評価されている。
我々はここまで、「ストーリーまんがの単行本」という観点で歴史を追ってきた。しかし、テプフェールは「単行本」という点だけではなく、そもそもコマ割り形式を用いて本格的な物語を描いた先駆者として歴史的に評価を受けている。
つまり、近代的な「コマ割りまんが」が本格的に始まろうとしたとき、それが掲載された舞台は雑誌や新聞ではなく、まとまったページ数の描き下ろし単行本だったということだ。
我々はコマ割りまんがの歴史を考えるとき、1コマのまんがが、2コマや3コマに増え、やがて4コマ、8コマと増え、徐々に発達していった、というイメージでとらえがちである。しかし、仮にテプフェールを重要な基点と考えるならば、むしろ逆の流れが見えてくる。それは、「単行本描き下ろし」という、ふんだんにページを使えるスタイルにおいてこそ、近代的なコマ割りまんがが本格的に始まり、やがてその手法が短い作品にも応用されていった、という見方だ。
あえて極論していうならば、4コマまんがが成長して、やがて長編になったのではない。まず一挙に長編まんがが描かれて、その手法を応用することで、現代的な4コマまんが表現も可能になった、ということだ。
もちろん、このような断定のしかたは粗雑でかなりの飛躍がある。今のところ想像の域を出ない。だが、「単行本描き下ろし」という出版形態は、手塚治虫の例に見られたように表現や技法を拡張させる力になったのみならず、そもそもコマ割りまんがという形式を本格的に成立させる原動力でもあったのではないか、という歴史的な問いは、十分検討に値するだろう。
テプフェールの作品には、「紙」の量がなにか決定的な形で関わっている。
しかし、話を急ぎすぎてはいけない。「コマ割り」と「ストーリー」が、紙の上で交錯してきた歴史。ひとまず、それを広く検討した上で、その中にテプフェールを位置づけ直す必要があるだろう。
そもそも、テプフェール以前には、コマ割りまんが表現は存在しなかったのだろうか。
コマ割り形式で物語を表現することは、古今東西、テプフェール以前にも広く行なわれている。
たとえば18世紀のイギリスの諷刺版画を見るならば、そこには多くのコマ割りまんが風の形式を見ることができる。見方によっては、それらをバンド・デシネやコミック・ストリップと評価することも可能だろう。デイヴィド・カンズルは、『History of the Comic Strip Volume I: The Early Comic Strip(コミック・ストリップの歴史・第1巻「初期のコミック・ストリップ」』の中で、ヨーロッパでの刊行物を中心に15世紀以降の「コマ割りまんが」的な表現例を数多く紹介している。それらを現在の我々が「コマ割りまんが」と評価することも決して不可能ではない。
「コマの連続」という表現形式自体は古くから多くの例があるため、そこに単純に注目するだけでは、「まんが史」としてはなかなか問題の焦点を結ばない。そもそも「まんが」とは何であるかがはっきりしないと、個々の事例が「分割された挿絵のついたテキスト」なのか、「コマ割りまんが」なのか、決めるのは難しい。
「まんが」という語の意味はきわめて広く、漠然としている。だから、そのとらえ方次第で、歴史の記述はがらりと変わってしまうのだ。
とするならば、ここで我々にまず必要なことは、何が「まんが」であるかをきちんと定義して、それに形式的に合致する過去の事例を調査・検討することだろうか。そうではない。むしろ、「意味がきわめて広く、漠然としている」ような現実のありさまを、そのまま引き受けて検討することが必要だろう。なにしろ、それが「まんが」なのだから。
まんがは、定義しうる形式や概念ではなく、ある歴史的事実である。規約によって成立したものではなく、たまたまの成り行きで生じた「出来事」にすぎない。当然、「まんが」という語によってすくい取られる現実の様相は、時代や地域で大きく異なる。日本の「まんが」も、現在と五十年前と百年前ではその意味は大きく異なる。我々は、まんがの同一性ではなく、多様性や変化、拡散を歴史に見る必要がある。
とはいえ、一方で我々はなんらかの史観を持たないと、歴史を記述することもできない。ある限られた角度からしか歴史は記述できない以上、なんらかの問題設定をする必要がある。
「コマ割り」と「ストーリー」。ここではこの2つを手がかりに、ひとまず歴史を根本的に見直すところから始めることにする。
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