まんが史の基礎問題07■ホガースとその時代
ウィリアム・ホガースは、連作版画を作って広く一般向けに販売したことで知られるイギリスの画家である。『A Harlot's Progress(娼婦一代記)』『Marriage a la Mode(当世風結婚)』などが代表作だ。ホガースの特徴のひとつは、その大衆性にある。ただ単に絵を描いたのではなく、社会的な事件や政治問題などに取材して、それを物語化して絵を描き、自ら版画にして出版するという、画期的なことを始めたのだ。具体的な表現の問題に触れる前に、まずそのことを確認しておこう。
ホガースが画家として活躍し始めたのは、ちょうどロンドンで「絵を見ること」が一般向けの娯楽として広がろうとしていた時代のことだ。18世紀までのロンドン市民は「まる二世紀以上にわたって絵画の美しさを見る機会を奪われてきた」とオールティックは書いている。
(前略)普通のロンドン市民にとって、美術は手の届きかねるものだった。実際、ロンドンには、大陸の都市とは対照的に、商店と居酒屋の看板をのぞけば、どんな類にしろ「パブリックな」、つまり公共の、すべての人に公開された美術はなきに等しかった。チューダー朝のはじめに各地の教会を豊かに飾っていたステンド・グラス、壁画、タベストリー、彫刻などの大半は、宗教改革によって滅びてしまっていたし、残ったものの多く――「迷信深い偶像崇拝」とあまり厳しくは見なされなかった教会美術の要素――も、教会の建物の中にあったあらゆる形式の宗教上の絵画的形象にたいする清教徒たちの広範な攻撃によって破壊されてしまっていた。ロンドンでは、一六六六年の大火が、破壊に止めをさした。(中略)一七世紀後期と一八世紀初期に制作されたような壁画――そして、言うまでもなく、多数の壁画があったのだ――は、王宮と貴族の館に限られたもので、こうした場所は特権階級しか出入りすることができなかった。したがって、ホガースが、公衆が自由に行けるセント・バーソロミュー病院の大階段の壁にベテスダの池と善きサマリア人の壁画を描いたことは、例外的なことだとしても、注目すべき前進だった。(中略)
競売画廊、つまり競売のために陳列した美術品は、競売の日にさきだつ二、三日間は毎回公開されたので、こうした折には、画廊は有名なパリの美術展のロンドン版のようなものになり、上流階級の人びとが絵を見るためと、それからおしゃべりをするために集まった。(中略)入場する資格のあった者たちの間では、これらの束の間の見世物は、疑いもなく、美術にたいする興味と、それを所有したいという欲望をつのらせた。この興味が一七四〇年代までには非常に活発なものになっていたということが、コーラム大佐が私財を投じてたてた新孤児院を美術館にしたてて、偶然にも成功したという出来事によってはっきりとわかる。ウィリアム・ホガースは、まだ駆け出しの画家だったが、孤児院の初代理事の一人だった。そして、一七四〇年に情深い大佐の肖像――イギリス絵画史上の名作――を病院に贈呈したホガースは、それから一世代もたたぬうちに、ロンドン市民が、紛れもない「絵画熱」とのちに呼ばれたような流行を目撃することになる、一連の出来事のきっかけを作ったのである。(R・D・オールティック『ロンドンの見世物I』小池滋・監訳、国書刊行会、1990年、264頁)
「一連の出来事」とは、見世物としての絵の展覧会と、その絵を版画化して売るビジネスのことだ。絵を見るという娯楽は、18世紀のロンドンで一般大衆に向けて広まっていく。そこで大きな役割を果たしたのが、展覧会と出版だ。現代のまんがが原則として出版物であるのと同様に、ホガースも自らの手で絵を出版した。裕福なパトロンのために絵を描きながらも、ホガースは「大衆」をもパトロンにすべく、比較的安価で買える版画を作って売り出したのだ。
18世紀のはじめから、すでにロンドンには版画店が存在しており、ホガースの活躍以降はますます盛んになっていく。
版画出版業界の人気ある一専門部門は、諷刺版画部門であった。ホガースの時代までには、つまり一八世紀半ばごろには、戯画は、すでに政治論争のありふれた武器としてバラッドに取ってかわりつつあった。諷刺版画と教訓的な版画全体の大衆市場をつくったのは、言うまでもなく、ホガースの鬼才であった。六ペンスという廉価で、当代のロンドンの生活を入り微に入り細をうがって比類なく写実的にえがいたホガースの版画は、教会が宗教改革のために聖書の絵物語を失って以来、それに代わるいかなる類の美術にも感動してきた観衆よりもすっと多くの観衆の興味をひいた。サー・ジョン・ローゼンスタインが述べたように、彼と共に、「芸術は、富豪の贅沢品ではなく、ごく自然にわいてくる表現になった。そして、彼が、しかも宗教改革以来はじめて、画家にもしろうとにも理解できる主題を、つまり芸術が栄える条件に大いに有利な環境をつくりあげたのだと言ってもも過言ではない」。ホガース流の一八世紀の版画の道徳的で諷刺的なテーマを理解するには古典の素養はいらなかった。それでも、政治的・社会的なテーマをあつかった絵による諷刺は、知的な人びとのみならず街頭の庶民の興味をもひいた。それは、一八世紀のイギリスにおけるとりわけ民主的な形式の芸術であった。そして、ギルレイとローランドソンのような創意に富む奇才が、彼らの激しい関心をひくに値する事件が次々と起きた時代に幸いにも巡り合わせたために、フランス革命とナポレオン戦争のころには、空前絶後のおびただしい版画が出回ったのである。(同、290頁)
まんがの歴史を研究している欧米の多くの本が、ホガースを重要な祖のひとりとして取り上げている理由は、何よりもまずここにある。ジャーナリズム的なメディアとしての「諷刺版画」や「風刺漫画」を、まんが史の重要な源流ととらえる場合、ホガースは決定的な役割を果たしている。それ以前にも、さまざまな国で諷刺版画は作られてきたが、産業革命による都市化を背景として求められたジャーナリズム的なメディアと、美術品として価値あるものを流通させることを、両立させる形で大衆向けに版画出版を行なったのがホガースだった。同様の傾向はオランダで先行して見られ、実際多くのオランダ風俗画・版画がホガースにも影響を与えているが、より注目すべきは彼がそれを明確に物語の形で描こうとしたことだ。
一枚ものの諷刺版画を制作していたホガースは、1732年以降、社会風俗に取材したテーマで6~12枚程度の連作による物語画を描き、それをギャラリーで展示した上で、同じ内容を版画化したものを売り出すようになった。一枚一枚の版画の内容は象徴性に富んでいて密度が非常に高く、さまざまなエピソードが続きものとして表現された。それは、当時の人気メディアにたとえるならば、6~12幕程度の芝居のようでもあるし、6~12章程度の小説のようでもある。ホガースは、版画というメディアを、芝居や小説に比肩するような強い物語性と豊かな描写力を兼ね備えたものとして評価されるところまで、その水準を高めた。ホガース自身、『娼婦一代記』の宣伝の中で、自らを画家(Artist)としてではなく、著者(Author)と称していることをフレデリック・アンタルは指摘している。その点は、同時代や後世の多くの小説家がホガースをあたかもライバルであるかのように意識したり、影響を受けたりしていることでもわかる。またホガース自身、自作の特徴を以下のように述べている。「私は自分の主題を劇作家のように扱おうとして来た。私の絵はすなわち私の舞台である。私の男や女は私の役者であり、彼らは一定の演技やしぐさで黙劇をやっているのである。」(ジョン・アイアランド「ホガース画伝」/櫻庭信之『絵画と文学 ホガース論考』研究社、1964/2000年)。ホガースは演劇から多くの影響を受けて連作版画を作ったが、逆に演劇にも影響を与えており、『娼婦一代記』は1733年に舞台で上演され成功を収めている。
ホガースの作品は、一般的に「ストーリーまんが」と評価されることはあまりないが、表現形式を別にすれば、現代のストーリーまんがに匹敵するほどの豊かなストーリー性を備えているといってよいだろう。彼は、小説家のように物語ろうとした結果、多くの「紙」を必要とし、それを自ら調達して連作版画として出版したのだ。
もちろんホガースの時代以前に、「コマ割りされた多数の絵によって物語を表現する」形式自体は、すでに広く行なわれている。それに比べるとホガースの形式は、外見的には旧来の絵画や版画の表現を複数並べたにすぎず、むしろ「遅れている」ようにさえ見える。にもかかわらず、ホガースが表現形式の面でも歴史的に重要なのは、絵と絵の「関係性によるナラティヴ」にも踏み込んだという点にある。
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