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2012.08.08

まんが史の基礎問題10■テプフェールの時代と視覚の変容

 そこに描かれているものが伝わる、というのは、我々にとって普通の考え方である。一方、そこに描かれていないものが伝わる、というのは、やや奇異なことに聞こえる。しかし実際には、我々が普段あたりまえに行なっていることだ。「関係」が、それを支えている。パースの記号論に即していうならば、アブダクション(レトロダクション)の持つ生産性こそが、テプフェールのコマ割り表現の大きな力であるともいえるだろう。この問題を、少し違う角度から考えてみる。
 「そこに描かれているものが伝わる」ということ、つまり私がAを知覚したならばそこにAがある、という知覚と実在の対応関係は、本来ならば我々の日常感覚を支える大きな柱だったはずだ。そこに木が見えたら、そこに木がある。声がしたら、そこには誰かがいる。この対応関係が成立しなかったら、我々はこの世界でまともには生きていけない。しかし一方で人間の知覚は、ありもしないものを表象する。光を見た後で目をつぶると、そこにはないはずの残像やパターンの乱舞が見える。キーンという音が聞こえると、現実の音なのか耳鳴りなのか、わからない。つまり、外部の実在と私の内なる表象は、素朴な反映関係にはないということだ。そこで、両者を媒介している「身体」というものが問題になってくる。
 ジョナサン・クレーリーはヨーロッパの視覚文化の歴史を研究する中で、目の残像現象の研究が本格的に始まり生理学という学術分野が本格的に出現した1820年代を、このような対応関係が崩れた大きな歴史の変換点ととらえている。その論議は著書『観察者の系譜』(以文社)で詳しく述べられているが、その要旨は別の本の中で、カメラ・オブスクラを思考のモデルに用いながら、次のように述べられている。

 (前略)17、8世紀におけるカメラ・オブスクーラについて述べておこう。カメラ・オブスクーラは、科学者にとっても芸術家にとっても、経験主義者にとっても合理主義者にとっても、何よりもまず客観的真理に近づくことを保証する装置であった。カメラ・オブスクーラは、経験的現象を観察するモデルとしても、反省的に内観や自己観察をするモデルとしても重要だったのである。たとえばロックにとって、カメラ・オブスクーラとは、観察主体の立場を空間的に可視化する一つの手段であった。ロックにおける部屋のイメージがとても重要なのは、それによって、判事あるいはその資格を有する人の部屋の中を意味する「カメラの中(in camera)」という言葉が、17世紀に何を意味していたかが明らかになるからである。ロックは観察者の受動的な役割の上に、より権威のある法的権限を加えた。つまり、外部の世界と内部の表象との対応を保証し警備する権限、そして秩序に反するものや手に負えないものすべてを排除する権限を、ロックは観察者に与えたのである。(中略)
デカルトにとってカメラ・オブスクーラとは、観察者が「もっぱら精神の知覚によって」世界を知る方法を説明するものであった。(中略)カメラ・オブスクーラは、世界をありのまま客観的に見ることを土台に知を築こうとするデカルトの探究に、ぴったり合っている。カメラの孔は、数学的に規定される一点に対応している。そして、その一点から世界は論理的に演繹され、表象される。自然の法則(すなわち幾何学的光学)にもとづくカメラ・オブスクーラは、こうして世界に対する絶対的な視点を与えてくれた。身体に左右されるほかない感覚的証拠は拒否され、この単眼用の機械的装置によって作り出された表象こそが、疑う余地なく正しいものとされたのである。(中略)
 驚くべきことに、19世紀前半、突如としてこのパラダイムは崩れさり、人間的視覚というまったく異なるモデルに取って代わられた。この転換において、視覚をめぐる言説と実践のなかに、「人間の身体」という新しい用語が導入された。(中略)1810年に出版されたゲーテの『色彩論』は、視覚における中心がまさに身体になったことをもっとも雄弁に語っている(これについては別の場所で詳しく論じた)。この著作の重要性は、光の構成についてニュートンに反論したことにではなく、主観的視覚というモデルを明確に記していることにある。このモデルには、濃密な生理学的身体が、視覚を可能にする下地として導入されている。われわれがゲーテのなかに見出すのは、生産力を持った新しい観察者というイメージである。その観察者の身体は、視覚的経験を生み出すさまざまな能力を持っているのである。したがって、そのような視覚経験は、観察主体の外にあるいかなる対象にも対応してはいない。(中略)
網膜残像は人をあざむく、幽霊のような、実在しない錯覚であると、かたづけられていた。ところが、かつては身体の危うさや不確かさの証例になっていた一連の経験が、19世紀前半になると、視覚を成立させる実定性になった。だが、おそらくさらに重要なことに、視覚を生産する身体を特権化することによって、カメラ・オブスクーラが前提としていた内部と外部との区別が崩壊し始めた。(中略)知覚と対象とが直接的に対応するという考えは揺らぎ、1820年代には、自律的な視覚のモデルが成立したのである。(ジョナサン・クレーリー「近代化する視覚」ハル・フォスター編『視覚論』榑沼範久・訳、平凡社、2000年、52頁)

 知覚と実在の対応関係の崩壊という、この時代の変容が、視覚の身体性という面から指摘されている。
 ちなみに、テプフェールが「そこに描かれていないものを伝える」方法として、初めてコマ割りまんがを描いたのは、1827年である。それは、まさしく上記のような知覚のあり方が変容する中で描かれたということだ。さらに、そのテプフェールの作品を高く評価し、出版の後押しをしたのが、ほかならぬゲーテであるという事実は、この時代のヨーロッパの視覚文化の変容が、テプフェールの表現と密接な関連を持っていることを考えさせずにはいない。
 上のクレーリーの文章を、以下のように書き換えておく。「われわれがテプフェールのなかに見出すのは、生産力を持った新しい読者というイメージである。」

 ◆

 クレーリーの論ずる「視覚の身体性」というヨーロッパの変化は、ゲーテが『色彩論』で問題にし、1820年代に本格的に始まった目の残像現象の研究によって進行していく。この研究は、歴史的に見るならば、動画の基本原理の発見としても知られる。
 円板を回転させて表裏の絵を合成する実験に用いられ、やがて玩具として広く知られていくソーマトロープは1825年に発表されている。1832年にはジョゼフ・プラトーによってフェナキスティコープが発表され、本格的に「絵の動き」が表現される。やはりこれも玩具のフェナキスティスコープとして普及してゆき、この後競うようにして動画技術が開発されていく。
 後の映画やアニメーションの基本的な原理は、1820年代に発見され、1830年代に本格的に形を整えて、広く人々に知られていったのだ。つまりこれは、テプフェールが1820年代に初めてコマ割りまんがを描き、1830年代に出版されて広く人々に知られていくのと、まったく並行する歴史だということになる。
 コマ割りまんがとアニメーションは、そのルーツをともに1820年代に持ち、並行して発達していった、といっていいだろう。
 これは、たまたまの一致だろうか。むしろ両者は、同じ時代の視覚の変動を背景に生まれたという点で、兄弟のようなものと考えることで、新たな歴史の視座が開けてくるのではないだろうか。
 まんがとアニメは、現在も非常に近いジャンルとして親しまれているが、歴史的に見ても、そもそも極めて近いところから生まれてきたものだといえる。

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