2013.04.26

新刊のお知らせ「復刻版 観相学試論」

テプフェールが1845年に発表したまんが論「観相学試論(Essai de Physiognomonie)」の復刻版を作成しました。
http://homepage3.nifty.com/gos/comic/index.htm

Amazonから購入することができます。また、今度の5月5日に東京ビッグサイトで開催されるコミティア104「す14b」でも販売します。(こちらではAmazonの手数料がかからないので、少し安く販売します)

「復刻版 観相学試論」ロドルフ・テプフェール(森田直子・訳)
http://www.amazon.co.jp/dp/4901241117/

【内容紹介】
現代的な意味でのストーリーまんがの祖といわれる著者が、自らの創作体験に基づいて1845年に発表した、世界最初の本格的まんが論というべき画期的な論考。
連続する絵によって小説のような内容を表現する手法の可能性を、物語、線、キャラクター、顔、印刷技法などを中心に論じており、現代のまんが論にも通ずる論点が数多く考察されている。
1845年に刊行されたオリジナル本は活字を一切用いず、テプフェールのまんが作品と同様に絵と文がすべて手書きされ、文意に即した自在なレイアウトを実現していた。本書はそれをそのまま採録した復刻版である。日本語版もあわせて収録し、訳者による解題を付した。

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2012.08.22

Amazonで取り扱い始めました

本にしたものがAmazonから購入できるようになりました。

「まんが史の基礎問題 ホガース、テプフェールから手塚治虫へ」
http://www.amazon.co.jp/dp/4901241109/

他のネット書店や一般書店では注文・購入できません。Amazonのみの取り扱いですのでご注意下さい。
Amazon取り扱いの経費がかかるため、少し割高になりましたが、送料は無料です。

〈2012.9.2〉 現在「在庫あり」です。
これまで「在庫なし」にもかかわらず注文を入れて下さった皆さまのおかげで、ようやくAmazonからまとまった納品依頼があり、状況が改善されました。どうもありがとうございます。

以下は目次です。このブログに掲載した内容は、ほぼ序章と第1章にあたります。

序.ストーリーまんがの源流
紙の量について/手塚治虫と赤本/ストーリーとコマ/コマ割りまんがの父・テプフェール/コマ割りまんがはどこから来たか

第1章 ストーリー・ページ・コマ
1.コマ割り表現の歴史
絵はいかに区切られたか/『ライモンドゥス・ルルス小約言』挿画/「時間性コマ配置」と「関係性コマ配置」
2.ホガースとその時代
「絵を見ること」の大衆化/ホガース『ことの前後』
3.テプフェールと線
蛇行する線/「と」としての線/テプフェールの時代と視覚の変容/まんがとアニメにとっての1820年代/テプフェールの線はどこから来たか

第2章 絵・キャラクター・線
1.キャラクターとカリカチュア
ホガースの絵柄/キャラクター文学/図像と虚構/印刷によって制限される絵柄/ホガースのキャラクター表現
2.カリカチュア革命
カリカチュアの流行とアマチュア/カリカチュアをめぐる問題/モダン・カリカチュアの展開
3.テプフェール「観相学試論」
線とキャラクター/ペンで紙に自由に描くこと
4.シンボルとイメージ
絵と文/写真と映画

第3章 触覚的・通過・運動
1.視覚的と触覚的
映画における触覚的な受容/建築としてのストーリーまんが/パサージュから都市へ
2.テプフェール以後の展開
パリでの反響/雑誌・新聞の時代と単行本/児童向けの絵本/ブッシュと動きの表現
3.雑誌から単行本へ
定期刊行物とまんが/キャラクターとマーケッティング/19世紀アメリカ/連載から単行本へ/戦前の日本における単行本
4.近代メディアとまんが
アニメーションの出現とウィンザー・マッケイ/動きとキャラクター/トーキー時代のまんが/日本のアニメーションとストーリーまんが/ふたたび『新寶島』

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2012.08.08

まんが史の基礎問題■図版付PDF

ここまでの内容のPDFです。図版を70点以上付けましたので、かなり重いです。

まんが史の基礎問題_00.pdf(5.6MB)
まんが史の基礎問題_01.pdf(12.6MB)

これ以後も内容は続きます。冊子の形で読んでいただけるよう準備中です。
(8/12のコミケに持っていく予定です。西す34a)

(2012.08.18)
コミケで購入して下さった方々、どうもありがとうございました。当日持参した分は、おかげさまで完売しました。
ネットから買えるように準備中です。しばらくお待ち下さい。

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まんが史の基礎問題11■テプフェールの線はどこから来たか

 前に述べたように、テプフェールの作品の一コマ一コマは、線の密度も内容も非常にシンプルであり、コマによっては単独ではほとんど意味をなさない。ホガースと異なり、ひとつひとつの絵に商品価値を持たせる必要はなく、むしろ描きとばしている。そのことが、絵と絵の関係性を読み取らせることを支えている。
 つまり、現代の我々が慣れ親しんでいるようなコマ割り表現が成り立つ時に、重要だったのはコマそのものではなく、むしろ絵の質の方だったということになる。
 とするならば、その支えとなっているテプフェールのシンプルな絵柄そのものに注目し、検討しなければならない。エルンスト・ゴンブリッチは、テプフェールの表現について、以下のように述べている。

 かかる省略的な様式を使用する美術家は、自分が割愛しているものはつねに観照者の方で補足してくれるものと当てにできる。練達の技術で完璧に仕上げられた絵画では、どんなわずかな欠陥でも混乱のもととなるだろうが、テプファーとその模倣者たちの慣用語では、そのような省略の表現も話術のうちとして読んでもらえるのだ。(エルンスト・ゴンブリッチ『芸術と幻影』瀬戸慶久・訳、岩崎美術社、1979年 、455頁)

 観照者の補足とは、つまり、生産力を持った読者ということであり、それはコマとコマの関係だけではなく、そもそもこのような「省略的な」絵柄の特徴でもある。
 確かにテプフェールの絵は非常に省略的ではあるが、改めてよく見てみるならば、その描線はむしろ「落書き」といった方がいいくらいに、不安定で頼りない。現在の日本で、もしこの絵柄でまんが家デビューしようとしたら、まず周囲の人に止められるだろう。普通の神経の持ち主なら、この絵でお金を取ろうとは考えない。とても商売になるような線とは思えない。たとえヘタウマというジャンルに挑むにしても、「この絵でよいのだ」という無根拠な覚悟と図太い神経が必要だ。19世紀のジュネーヴで、こんな絵柄で作品を描いて出版するというのは、相当無謀な行為だったのではないかと想像される。
 テプフェールは、わざわざこのような下手くそな線を引いたのだ。これは意図的な行為である。父が有名な画家であり、もともと自らも画家を目指していながら眼病でやむなく断念したテプフェールは、「うまい絵」を描けるだけの技術は十分に持っており、その上で、あえてこのような線を引いている。
 当時の一般的な出版物に掲載されている絵の水準から考えて、なぜテプフェールがこんな暴挙ともいうべき落書きのような絵を発表したのか。周囲の反応はどうだったのか。よく考えるとこれは重大な問題である。
 しかし実際に歴史を見てみると、テプフェールほどの大胆さではないにしろ、ホガース以後にイギリスの「諷刺版画」の絵柄は大きく変化してきており、ひどく歪んだ表現が増えているのも、また事実である。
 実はホガースの没後にイギリスの風刺版画界には「カリカチュア革命」ともいうべき事態が生じ、ホガースの絵柄は時代後れのものとなってしまう。テプフェールの絵柄は、さらにその先を行った「アヴァンギャルド」と見ることもできるだろう。
 テプフェールの線はどこから来たのか。それを検討しなければならない。

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まんが史の基礎問題10■テプフェールの時代と視覚の変容

 そこに描かれているものが伝わる、というのは、我々にとって普通の考え方である。一方、そこに描かれていないものが伝わる、というのは、やや奇異なことに聞こえる。しかし実際には、我々が普段あたりまえに行なっていることだ。「関係」が、それを支えている。パースの記号論に即していうならば、アブダクション(レトロダクション)の持つ生産性こそが、テプフェールのコマ割り表現の大きな力であるともいえるだろう。この問題を、少し違う角度から考えてみる。
 「そこに描かれているものが伝わる」ということ、つまり私がAを知覚したならばそこにAがある、という知覚と実在の対応関係は、本来ならば我々の日常感覚を支える大きな柱だったはずだ。そこに木が見えたら、そこに木がある。声がしたら、そこには誰かがいる。この対応関係が成立しなかったら、我々はこの世界でまともには生きていけない。しかし一方で人間の知覚は、ありもしないものを表象する。光を見た後で目をつぶると、そこにはないはずの残像やパターンの乱舞が見える。キーンという音が聞こえると、現実の音なのか耳鳴りなのか、わからない。つまり、外部の実在と私の内なる表象は、素朴な反映関係にはないということだ。そこで、両者を媒介している「身体」というものが問題になってくる。
 ジョナサン・クレーリーはヨーロッパの視覚文化の歴史を研究する中で、目の残像現象の研究が本格的に始まり生理学という学術分野が本格的に出現した1820年代を、このような対応関係が崩れた大きな歴史の変換点ととらえている。その論議は著書『観察者の系譜』(以文社)で詳しく述べられているが、その要旨は別の本の中で、カメラ・オブスクラを思考のモデルに用いながら、次のように述べられている。

 (前略)17、8世紀におけるカメラ・オブスクーラについて述べておこう。カメラ・オブスクーラは、科学者にとっても芸術家にとっても、経験主義者にとっても合理主義者にとっても、何よりもまず客観的真理に近づくことを保証する装置であった。カメラ・オブスクーラは、経験的現象を観察するモデルとしても、反省的に内観や自己観察をするモデルとしても重要だったのである。たとえばロックにとって、カメラ・オブスクーラとは、観察主体の立場を空間的に可視化する一つの手段であった。ロックにおける部屋のイメージがとても重要なのは、それによって、判事あるいはその資格を有する人の部屋の中を意味する「カメラの中(in camera)」という言葉が、17世紀に何を意味していたかが明らかになるからである。ロックは観察者の受動的な役割の上に、より権威のある法的権限を加えた。つまり、外部の世界と内部の表象との対応を保証し警備する権限、そして秩序に反するものや手に負えないものすべてを排除する権限を、ロックは観察者に与えたのである。(中略)
デカルトにとってカメラ・オブスクーラとは、観察者が「もっぱら精神の知覚によって」世界を知る方法を説明するものであった。(中略)カメラ・オブスクーラは、世界をありのまま客観的に見ることを土台に知を築こうとするデカルトの探究に、ぴったり合っている。カメラの孔は、数学的に規定される一点に対応している。そして、その一点から世界は論理的に演繹され、表象される。自然の法則(すなわち幾何学的光学)にもとづくカメラ・オブスクーラは、こうして世界に対する絶対的な視点を与えてくれた。身体に左右されるほかない感覚的証拠は拒否され、この単眼用の機械的装置によって作り出された表象こそが、疑う余地なく正しいものとされたのである。(中略)
 驚くべきことに、19世紀前半、突如としてこのパラダイムは崩れさり、人間的視覚というまったく異なるモデルに取って代わられた。この転換において、視覚をめぐる言説と実践のなかに、「人間の身体」という新しい用語が導入された。(中略)1810年に出版されたゲーテの『色彩論』は、視覚における中心がまさに身体になったことをもっとも雄弁に語っている(これについては別の場所で詳しく論じた)。この著作の重要性は、光の構成についてニュートンに反論したことにではなく、主観的視覚というモデルを明確に記していることにある。このモデルには、濃密な生理学的身体が、視覚を可能にする下地として導入されている。われわれがゲーテのなかに見出すのは、生産力を持った新しい観察者というイメージである。その観察者の身体は、視覚的経験を生み出すさまざまな能力を持っているのである。したがって、そのような視覚経験は、観察主体の外にあるいかなる対象にも対応してはいない。(中略)
網膜残像は人をあざむく、幽霊のような、実在しない錯覚であると、かたづけられていた。ところが、かつては身体の危うさや不確かさの証例になっていた一連の経験が、19世紀前半になると、視覚を成立させる実定性になった。だが、おそらくさらに重要なことに、視覚を生産する身体を特権化することによって、カメラ・オブスクーラが前提としていた内部と外部との区別が崩壊し始めた。(中略)知覚と対象とが直接的に対応するという考えは揺らぎ、1820年代には、自律的な視覚のモデルが成立したのである。(ジョナサン・クレーリー「近代化する視覚」ハル・フォスター編『視覚論』榑沼範久・訳、平凡社、2000年、52頁)

 知覚と実在の対応関係の崩壊という、この時代の変容が、視覚の身体性という面から指摘されている。
 ちなみに、テプフェールが「そこに描かれていないものを伝える」方法として、初めてコマ割りまんがを描いたのは、1827年である。それは、まさしく上記のような知覚のあり方が変容する中で描かれたということだ。さらに、そのテプフェールの作品を高く評価し、出版の後押しをしたのが、ほかならぬゲーテであるという事実は、この時代のヨーロッパの視覚文化の変容が、テプフェールの表現と密接な関連を持っていることを考えさせずにはいない。
 上のクレーリーの文章を、以下のように書き換えておく。「われわれがテプフェールのなかに見出すのは、生産力を持った新しい読者というイメージである。」

 ◆

 クレーリーの論ずる「視覚の身体性」というヨーロッパの変化は、ゲーテが『色彩論』で問題にし、1820年代に本格的に始まった目の残像現象の研究によって進行していく。この研究は、歴史的に見るならば、動画の基本原理の発見としても知られる。
 円板を回転させて表裏の絵を合成する実験に用いられ、やがて玩具として広く知られていくソーマトロープは1825年に発表されている。1832年にはジョゼフ・プラトーによってフェナキスティコープが発表され、本格的に「絵の動き」が表現される。やはりこれも玩具のフェナキスティスコープとして普及してゆき、この後競うようにして動画技術が開発されていく。
 後の映画やアニメーションの基本的な原理は、1820年代に発見され、1830年代に本格的に形を整えて、広く人々に知られていったのだ。つまりこれは、テプフェールが1820年代に初めてコマ割りまんがを描き、1830年代に出版されて広く人々に知られていくのと、まったく並行する歴史だということになる。
 コマ割りまんがとアニメーションは、そのルーツをともに1820年代に持ち、並行して発達していった、といっていいだろう。
 これは、たまたまの一致だろうか。むしろ両者は、同じ時代の視覚の変動を背景に生まれたという点で、兄弟のようなものと考えることで、新たな歴史の視座が開けてくるのではないだろうか。
 まんがとアニメは、現在も非常に近いジャンルとして親しまれているが、歴史的に見ても、そもそも極めて近いところから生まれてきたものだといえる。

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2012.08.07

まんが史の基礎問題09■テプフェールと線

 テプフェールの作品は線の密度も絵の内容も非常にシンプルであり、コマによっては単独ではほとんど意味をなさない。前後のコマとの関係性や、文章との関係性においてはじめて意味を持つ。一枚一枚に商品価値を持たせる必要があったホガースとは違い、テプフェールにおいては一コマ一コマに商品価値を持たせる必要はなく、むしろ描きとばしているかのようだ。だからこそ、見る者はひとつひとつの絵には執着することがなく、結果的に、コマ同士の関係性が強く意識される。絵そのものが語る以上に、絵と絵の関係が語っている。
 歴史的に見て、テプフェール以後にヨーロッパでは「コマ割りまんが」が急増しており、このようなスタイルによってテプフェールが新しい表現の可能性を切り開いたことが、後に大きく影響していることがうかがえる。
 そのように考える時に、興味深いことのひとつは、枠線の描き方である。その頼りないタッチの枠線の蛇行ぶりも印象的だが、清書前の肉筆回覧用の原稿を見ると、どれも枠線が囲まれていない。四角く閉じずに、絵と絵の間を一本の線で区切っているだけである。
 前述のように、絵を可算化(複数化)するためには、絵を区切る行為が必要である。テプフェールの原稿を見るかぎり、彼はただ絵を区切っていく。枠線を閉じなくても、そのままで「コマ割りまんが」は成立するのだ。これを見ると、一般的にコマの枠線には2つの役割があることが確認できる。ひとつは絵を区切ることであり、もうひとつは構図を決めることである。「コマ割りまんが」が物語るために必要なのは前者の機能である。テプフェールのコマの枠線は、そもそもは構図を構成するために引かれたのではない。区切ることによって、絵を可算化したのだといえる。
 絵は、区切られることによりはじめて「1」となり、それは同時に「2」を呼び込む。数えられないうちは、ひとつの絵があるように見えたとしても、まだ「単数」ではない。「単数」になるということは、同時に「複数」をはらむことであり、数えられるようなものになったということだ。テプフェールが絵を描き、その脇に1本の境界線を引いた時、その絵は「単数」へと変貌し、その境界線の向こう側に、未だ描かれざる複数の絵が潜在的に出現したのだと言うこともできる。その未決定の未来へ向かってペンを走らせ、次々と絵を顕在化していった作業の軌跡が、テプフェールの作品なのではないのか。

 このような、区切ることで複数を呼び込む線の機能は、言語でいうならば接続詞の「と」(et, and)に相当すると考えられる。テプフェールの描法は、ある絵を描いた後に線(=「と」)を書き込んで、「…と、…と、…と、…」と絵を描き連ねていくやり方と言えるだろう。
 このようなテプフェールの描き方は、未決定の未来に向かって次のコマを生み出していく行為であるから、結果的に物語は「行き当たりばったり」の展開となりやすいと考えられる。実際、多くのテプフェール作品の物語はそのような迷走ぶりを発揮しており、先行きが読めない展開となっている。その物語の軌跡は、図のようにジグザグに蛇行するイメージでとらえることができるだろう。
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このジグザグ線はロレンス・スターン(1713~1768)の小説『トリストラム・シャンディ』から引用したもので、この作品の物語展開の迷走ぶりを自己言及的に説明する際に用いられている。同じスターンの『センチメンタル・ジャーニー』については、テプフェールの『フェステュス博士』への影響も指摘されている。テプフェールは小説家としても活躍しており、ジュネーヴ・アカデミー(現・ジュネーヴ大学)の文学教授を務めるなど文学に造詣が深い。テプフェールの作風には、ラブレーなどフランス文学の伝統はもちろんだが、英文学やイギリス文化の影響が広く認められる。
 なお、『トリストラム・シャンディ』の中でスターンは、ホガースの著書『美の解析』に触れており、ホガースは請われて『トリストラム・シャンディ』第二版のために挿絵を描いている。『美の解析』でホガースが、美を直線ではなくS字型の蛇状曲線として示しているのはよく知られるところである。テプフェールの描線や物語展開に強く見られる「非直線」的傾向には、ホガースやスターンをはじめとする18世紀イギリス文化との関連性も濃いように思われる。

 なお、前述のとおり「関係」について述べているジル・ドゥルーズは、ゴダールの映画について語りながら、「と」について以下のように述べている。

 ゴダールで重要なのは(中略)接続詞の「と」なのです。「と(ET)」の用法はゴダールの核心にかかわる重要問題です。なぜ重要かというと、私たちの思考全体が、おおむね動詞の《etre》、つまり「ある(EST)」をもとにして成り立っているからです。哲学は、(「空は青色である」といった)属性判断と(「神がある」といった)存在判断をめぐる議論によって、そしてこれが還元可能かどうかという議論のせいで、まったく身動きがとれなくなっている。ところが、この種の議論ではいつも「ある」という動詞が使われるのです。三段論法を見ればわかるとおり、接続詞ですら、動詞の「ある」と釣り合うように使われている。接続詞を解放し、関係一般について考察した人は、イギリスとアメリカの思想家以外にはほとんどいません。ともあれ、関係判断を一個独立した類型に仕立てあげれば、この類型がいたるところに入り込むということがわかってくる。この類型はいたるところに浸透して、あらゆるものを変質させるのです。「と」は特別な接続詞でも、特殊な関係でもなくなり、すべての関係を巻き込むようになる。そして「と」の数が増えれば、それにあわせて関係の数も増えていく。「と」はあらゆる関係を転覆させるだけでなく、「ある」という動詞なども残らず転覆させてしまうのです。「……と……と……と」とたたみかける接続詞「と」の使用は創造的にどもることにつながり、国語を外国語のようにあやつることにもつながる。そしてこれが、「ある」という動詞にもとづく規範的で支配的な国語の使用と対立するのです。
 もちろん、「と」は多様性であり、多数性であり、自己同一性の破壊でもあるわけです。(中略)多数性は、辞項の数がいくら増大しようとも、けっして辞項そのもののなかにはないのだし、辞項の集合や総和のなかにもありはしない(中略)。多数性は、要素とも、集合とも性質が違う、この「と」自体のなかにあるのです。(中略)「と」というのは、ふたつのもののうちどちらかひとつを指すのではなく、ふたつのものの「あいだ」にある境界を指しているのです。どんな場合にもかならず境界があり、逃走の線や流れがあるわけですが、ただいかんせん、これがもっとも知覚しにくい部類のものであるため、実際にはなかなか見えてこない。しかし、事物が生起し、生成変化がおこり、革命が素描される場は、この逃走線にあるのです。(「「6×2」をめぐる三つの問い(ゴダール)」宮林寛・訳『記号と事件』河出書房新社、1992/1996年新装版、77頁)

 テプフェールの描法は、「と(et, and)」としての区切り線を引いて、その先を生成していくやり方であり、「創造的にどもる」方法であることを感じさせる(いびつなコマの形や、はみ出したり空白があいたりする文字スペースのバランスの悪さは、どもりながら描いていることを思わせる)。一方、18世紀までの多くのコマ割り形式の物語表現は、「ある(est, be)」によってひとつひとつのコマの内容が支えられており、他のコマによって自己同一性が揺るがされることはあまりない。
 テプフェールの作品ではどのコマも中心化されない。いったん中心化されたかに見えたコマは、次のコマによって中心であることを奪われ、次々と中心化が先送りされる。それに比べると、テプフェール以前のコマ割り表現は、特定のコマが中心化された体系だったり(たとえば祭壇画や曼陀羅的な表現)、どのコマも自立的な役割を担って、自らを支える中心であったりすると見ることができるだろう。
 ちなみに、「と」で結ばれる関係の中で、最も注目されるべき因果関係(原因性)について、ドゥルーズは前出の「ヒューム」で次のようにも書いている。

 原因性は、私を、私に与えられた何かから私に決して与えられることのなかった何かの観念へ、さらには、経験には与えられない何かの観念へと移行させる。たとえば、書物のなかの記号から出発して、私はシーザーが生きていたと信ずる。太陽が昇るのを見て、私は明日太陽が昇るだろうと語る。水が100℃で沸騰するのを見たことで、私は水が必ず100℃で沸騰すると語る。ところが、明日、常に、必ずといった語法は、経験には与えられえない何かを表現している。(中略)原因性の関係は、それによって、私が与えられたものを超越してゆく関係、私が与えられたものや与えられうるもの以上のことを語る関係、要するに、それによって、私が推論し私が信ずる関係、私が何ごとかを待ち受けて予期する関係である。(同、22頁)

 現代の我々が普段経験しているコマ割り表現の生産性とは、このような「関係」のことであろう。コマ割り表現によって伝わるものは、そこには描かれていない。そこに描かれてあるものを超越していくこと、そこに描かれてあるもの以上のことを推論し信じることが、コマ割り表現を読むことである。
 超越である以上、そこに描かれてあるものの中に根拠はない。もし、それでもあえて何かを探すとすれば、テププェールが無造作に引いた一本の線が目に入ってくるほかないだろう。「と」としての線が。

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2012.08.05

まんが史の基礎問題08■ホガース『ことの前後』

 ホガースが、絵を複数並べてシリーズとして作品を制作するという手法を始めたのは、1730年前後のことらしい。前述のデイヴィッド・カンズルは『コミック・ストリップの歴史:第1巻』において、ホガースの油彩画『Before and After(ことの前後)』(1730年)に注目している。
 後の連作シリーズの先駆けとなったこの2枚組の絵画は、ことの前と後を示すだけで、その間に起きたことを描かずに、受け手に想像させる表現をとっている。物語のテキストや説明文などはない。また、一般的に絵画を見る者が暗黙の内に文脈として共有する聖書や神話、歴史的事件などの周知の物語内容などが、前提されているわけでもない。見る者は、ただ描かれた2枚の内容に因果関係を探ることで、ことの次第を解釈する。
 「関係性」による絵の配置が、ここに用いられているように思われる。
 この後にホガースは、この手法を「発展」させて、6枚組みの『A Harlot's Progress(娼婦一代記)』(1732年)を描き、連続物語版画という手法を定着させ、次々と作品を生み出していく。その手法の「発展」がいかなるものであったかは、同じ『Before and After』というテーマで描いた別の2枚組みの油絵(1730~31年)と、その版画化(1736年)を見て比較すると、よりわかりやすい。
 先の『Before and After』と近い時期に描かれた、もうひとつの『Before and After』は、舞台を室内に移して、やはり男女の「ことの前後」を描いている。室内であるだけに、象徴的な意味を持たせるための小道具や背景が豊富に描かれ、我々がよく知るホガースらしい密度の高い図案となっている。5年ほど後に作られた版画では、さらに密度が上がり、画中画も加わって象徴的な意味を発揮し、他の連続物語版画ときわめて似た表現が用いられている。このようなホガースの版画では、画面のあらゆる場所からさまざまな「意味」が発掘される。
 それに比べると、野外を舞台にした第一バージョンの『Before and After』は、画面の中に描かれた象徴的要素が乏しく、後年のホガースの表現に慣れた目で見ると、どこか物足りない。ヴァトー調を意識して描かれたといわれるこの絵では、背景は象徴的な意味が薄く、むしろ描写性を強く感じさせるシンプルな構成の絵のようにも見える。
 ホガースはこの第一バージョンの絵を版画化していない。ホガースの選んだ手法の「発展」とは、一枚の絵の中の「情報量」を上げていくことであり、そのプロセスの中で、この第一バージョンの図案は捨ておかれるのだ。
 一枚の絵の中の象徴的要素が増えると、それを注視する者の「滞空時間」は長くなり、読み取られる意味も増えていくことになる。その分、一枚ごとの絵の自立性は高まるが、それに反して「連続性」の効果は、相対的に印象が弱まることになるだろう。
 『ルルス小約言』について述べたように、「コマ単独の内容は希薄であり、他のコマとの関係性において読者に意味を読み取らせる」ような表現力は、第一バージョンの『Before and After』の方にこそ感じられる。一枚の絵の「情報量」が比較的低い分だけ、連続性の効果が前面に出てきて、見る者に「二枚の関係から生まれる意味」をより強く感じさせるのだ。我々がこの作品に、後の「コマ割りまんが」的なダイナミズムに近いものを感じ取るとしたら、おそらくそのあたりに理由があるのではないだろうか。
 もちろん後の連作シリーズも、本来ならば同じような連続性の効果を持っていたのかもしれない。実際それらには、さまざまな「ことの前と後」が表現されている。しかしそれは、一枚ごとの画面が生み出す膨大な「情報量」に押し流されて、飲み込まれかけている。
 それは、版画を販売する上での必要性もあってのことだろう。ビジネスの面からすると一枚一枚が面白く見られ、商品価値があることが重要だ。しかしその結果、ホガースは「連続性」という効果の追究よりも、一枚一枚に多くの意味を盛りこんで補強し、塗り込めていくことに力を注いでいく。『Before and After』第一バージョンの方向性が持っていたはずの可能性が、それ以上振り返られることはなかった。

 ホガースの作品は、後の時代に大きな影響を与えた。同じイギリスには、ホガースの没後にギルレイ、ローランドソン、クルックシャンクなど、日本でもよく知られる風刺画家が現われ、「コマ割り」形式を用いた一枚刷りの版画も発表しており、現代の我々のイメージするまんがの形に近づいていくようにも見える。しかし、それらは「時間性コマ配置」の域を出ないものがほとんどで、どれも程度の差こそあれ、それなりに細かく描き込まれた絵柄を用いている。中でも緻密に描き込むことの多いギルレイは、当初は「コマ割り」作品を描いたものの、小さいサイズに描き込むことに限界を感じて、「コマ割り」の手法を捨ててしまったという。
 彼らと比べた時に、絵柄を大胆にシンプルな線画にして、コマの連続による長編作品を単行本描き下ろしで発表したテプフェールの革新性が、我々の目にも明らかになる。テプフェールはホガースの連作版画を高く評価しており、自ら影響を受けたことも述べているが、そのスタイルには決定的に大きな転換が見られる。

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2012.08.04

まんが史の基礎問題07■ホガースとその時代

 ウィリアム・ホガースは、連作版画を作って広く一般向けに販売したことで知られるイギリスの画家である。『A Harlot's Progress(娼婦一代記)』『Marriage a la Mode(当世風結婚)』などが代表作だ。ホガースの特徴のひとつは、その大衆性にある。ただ単に絵を描いたのではなく、社会的な事件や政治問題などに取材して、それを物語化して絵を描き、自ら版画にして出版するという、画期的なことを始めたのだ。具体的な表現の問題に触れる前に、まずそのことを確認しておこう。

 ホガースが画家として活躍し始めたのは、ちょうどロンドンで「絵を見ること」が一般向けの娯楽として広がろうとしていた時代のことだ。18世紀までのロンドン市民は「まる二世紀以上にわたって絵画の美しさを見る機会を奪われてきた」とオールティックは書いている。

(前略)普通のロンドン市民にとって、美術は手の届きかねるものだった。実際、ロンドンには、大陸の都市とは対照的に、商店と居酒屋の看板をのぞけば、どんな類にしろ「パブリックな」、つまり公共の、すべての人に公開された美術はなきに等しかった。チューダー朝のはじめに各地の教会を豊かに飾っていたステンド・グラス、壁画、タベストリー、彫刻などの大半は、宗教改革によって滅びてしまっていたし、残ったものの多く――「迷信深い偶像崇拝」とあまり厳しくは見なされなかった教会美術の要素――も、教会の建物の中にあったあらゆる形式の宗教上の絵画的形象にたいする清教徒たちの広範な攻撃によって破壊されてしまっていた。ロンドンでは、一六六六年の大火が、破壊に止めをさした。(中略)一七世紀後期と一八世紀初期に制作されたような壁画――そして、言うまでもなく、多数の壁画があったのだ――は、王宮と貴族の館に限られたもので、こうした場所は特権階級しか出入りすることができなかった。したがって、ホガースが、公衆が自由に行けるセント・バーソロミュー病院の大階段の壁にベテスダの池と善きサマリア人の壁画を描いたことは、例外的なことだとしても、注目すべき前進だった。(中略)
 競売画廊、つまり競売のために陳列した美術品は、競売の日にさきだつ二、三日間は毎回公開されたので、こうした折には、画廊は有名なパリの美術展のロンドン版のようなものになり、上流階級の人びとが絵を見るためと、それからおしゃべりをするために集まった。(中略)入場する資格のあった者たちの間では、これらの束の間の見世物は、疑いもなく、美術にたいする興味と、それを所有したいという欲望をつのらせた。この興味が一七四〇年代までには非常に活発なものになっていたということが、コーラム大佐が私財を投じてたてた新孤児院を美術館にしたてて、偶然にも成功したという出来事によってはっきりとわかる。ウィリアム・ホガースは、まだ駆け出しの画家だったが、孤児院の初代理事の一人だった。そして、一七四〇年に情深い大佐の肖像――イギリス絵画史上の名作――を病院に贈呈したホガースは、それから一世代もたたぬうちに、ロンドン市民が、紛れもない「絵画熱」とのちに呼ばれたような流行を目撃することになる、一連の出来事のきっかけを作ったのである。(R・D・オールティック『ロンドンの見世物I』小池滋・監訳、国書刊行会、1990年、264頁)

 「一連の出来事」とは、見世物としての絵の展覧会と、その絵を版画化して売るビジネスのことだ。絵を見るという娯楽は、18世紀のロンドンで一般大衆に向けて広まっていく。そこで大きな役割を果たしたのが、展覧会と出版だ。現代のまんがが原則として出版物であるのと同様に、ホガースも自らの手で絵を出版した。裕福なパトロンのために絵を描きながらも、ホガースは「大衆」をもパトロンにすべく、比較的安価で買える版画を作って売り出したのだ。
 18世紀のはじめから、すでにロンドンには版画店が存在しており、ホガースの活躍以降はますます盛んになっていく。

 版画出版業界の人気ある一専門部門は、諷刺版画部門であった。ホガースの時代までには、つまり一八世紀半ばごろには、戯画は、すでに政治論争のありふれた武器としてバラッドに取ってかわりつつあった。諷刺版画と教訓的な版画全体の大衆市場をつくったのは、言うまでもなく、ホガースの鬼才であった。六ペンスという廉価で、当代のロンドンの生活を入り微に入り細をうがって比類なく写実的にえがいたホガースの版画は、教会が宗教改革のために聖書の絵物語を失って以来、それに代わるいかなる類の美術にも感動してきた観衆よりもすっと多くの観衆の興味をひいた。サー・ジョン・ローゼンスタインが述べたように、彼と共に、「芸術は、富豪の贅沢品ではなく、ごく自然にわいてくる表現になった。そして、彼が、しかも宗教改革以来はじめて、画家にもしろうとにも理解できる主題を、つまり芸術が栄える条件に大いに有利な環境をつくりあげたのだと言ってもも過言ではない」。ホガース流の一八世紀の版画の道徳的で諷刺的なテーマを理解するには古典の素養はいらなかった。それでも、政治的・社会的なテーマをあつかった絵による諷刺は、知的な人びとのみならず街頭の庶民の興味をもひいた。それは、一八世紀のイギリスにおけるとりわけ民主的な形式の芸術であった。そして、ギルレイとローランドソンのような創意に富む奇才が、彼らの激しい関心をひくに値する事件が次々と起きた時代に幸いにも巡り合わせたために、フランス革命とナポレオン戦争のころには、空前絶後のおびただしい版画が出回ったのである。(同、290頁)

 まんがの歴史を研究している欧米の多くの本が、ホガースを重要な祖のひとりとして取り上げている理由は、何よりもまずここにある。ジャーナリズム的なメディアとしての「諷刺版画」や「風刺漫画」を、まんが史の重要な源流ととらえる場合、ホガースは決定的な役割を果たしている。それ以前にも、さまざまな国で諷刺版画は作られてきたが、産業革命による都市化を背景として求められたジャーナリズム的なメディアと、美術品として価値あるものを流通させることを、両立させる形で大衆向けに版画出版を行なったのがホガースだった。同様の傾向はオランダで先行して見られ、実際多くのオランダ風俗画・版画がホガースにも影響を与えているが、より注目すべきは彼がそれを明確に物語の形で描こうとしたことだ。
 一枚ものの諷刺版画を制作していたホガースは、1732年以降、社会風俗に取材したテーマで6~12枚程度の連作による物語画を描き、それをギャラリーで展示した上で、同じ内容を版画化したものを売り出すようになった。一枚一枚の版画の内容は象徴性に富んでいて密度が非常に高く、さまざまなエピソードが続きものとして表現された。それは、当時の人気メディアにたとえるならば、6~12幕程度の芝居のようでもあるし、6~12章程度の小説のようでもある。ホガースは、版画というメディアを、芝居や小説に比肩するような強い物語性と豊かな描写力を兼ね備えたものとして評価されるところまで、その水準を高めた。ホガース自身、『娼婦一代記』の宣伝の中で、自らを画家(Artist)としてではなく、著者(Author)と称していることをフレデリック・アンタルは指摘している。その点は、同時代や後世の多くの小説家がホガースをあたかもライバルであるかのように意識したり、影響を受けたりしていることでもわかる。またホガース自身、自作の特徴を以下のように述べている。「私は自分の主題を劇作家のように扱おうとして来た。私の絵はすなわち私の舞台である。私の男や女は私の役者であり、彼らは一定の演技やしぐさで黙劇をやっているのである。」(ジョン・アイアランド「ホガース画伝」/櫻庭信之『絵画と文学 ホガース論考』研究社、1964/2000年)。ホガースは演劇から多くの影響を受けて連作版画を作ったが、逆に演劇にも影響を与えており、『娼婦一代記』は1733年に舞台で上演され成功を収めている。
 ホガースの作品は、一般的に「ストーリーまんが」と評価されることはあまりないが、表現形式を別にすれば、現代のストーリーまんがに匹敵するほどの豊かなストーリー性を備えているといってよいだろう。彼は、小説家のように物語ろうとした結果、多くの「紙」を必要とし、それを自ら調達して連作版画として出版したのだ。
 もちろんホガースの時代以前に、「コマ割りされた多数の絵によって物語を表現する」形式自体は、すでに広く行なわれている。それに比べるとホガースの形式は、外見的には旧来の絵画や版画の表現を複数並べたにすぎず、むしろ「遅れている」ようにさえ見える。にもかかわらず、ホガースが表現形式の面でも歴史的に重要なのは、絵と絵の「関係性によるナラティヴ」にも踏み込んだという点にある。

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2012.08.02

まんが史の基礎問題06■「時間性コマ配置」と「関係性コマ配置」

 中世のミニアチュールの中でも、際立って興味深いもののひとつは、14世紀前半に描かれたといわれる彩色写本『ライモンドゥス・ルルス小約言(Electorium parvum seu breviculum)』である。挿画を見ると、複数のコマが時間順に並び、同じ外見の人物(ルルス)が活躍する上に、セリフが口から直接出る独特の形式を採っている。単に形式的な問題だけであれば、これは十分「コマ割りまんが」らしき条件を備えているとも言えるだろう。
 さらに興味深いのは、ライモンドゥス・ルルス(Raimundi Lulli/1232年頃~1315年)という人物の思想である。この『小約言』はルルスの弟子のトマスが、ルルスの死後に彼の著作を編纂したものであり、挿画の描き方を見るかぎりでは、ルルスの思想が反映されていることが感じられる。宣教師であったルルスは、さまざまな概念を記号化して機械的に結合させることにより、あらゆる真理を表現しようとしたことで知られ、それは後のデカルトやライプニッツなどにも影響を及ぼし、いわば記号論理学の源流としても評価されている人物である。ルルスの著書には、彼の「結合術」の説明として「図表」が使われている。概念を表わす項を、他の項とさまざまに組み合わせ、その関係性の網目の中であらゆる真理が表現できると考えたのである。そのような関係性のチャートも、形式的に見れば「コマ割り」である。時系列によるコマの連なりとは別の観点からのコマ表現が、ここには導入されている。
 ルルスの思想を伝えるために描かれた『小約言』の挿画には、2種類の考え方のコマ表現が用いられている。ひとつは時系列によるコマの連続であり、もうひとつは関係性によるコマの配置である。前者のコマの内容は物語性や描写性などの具体性が高く、それらができごとの時間の順に並ぶ。後者のコマは象徴的・抽象的な絵や記号が多く、コマ単独の内容は希薄であり、他のコマとの関係性において読者に意味を読み取らせる。

 時系列とは異なるコマ配置の考え方がここに見出せる。時間の順序ではなく、関係性を読み取るべきものとしてのコマの並びである。人間は、項が2つ以上あると、その間にさまざまな関係性を読み取ろうとする。ところが、そこにある種の関係(たとえば因果関係)を読み取った場合には、それを時間としても経験することになる。それは結果的に、時系列によるコマの並びと同じものととらえられるかもしれないが、両者の成り立ちには大きな違いがある。後者においては、コマの中身よりも、コマとコマを関係づけて読み取ること自体が重要である。たとえば関係性を問題にしたイギリスの経験論者デイヴィッド・ヒュームの哲学について、ジル・ドゥルーズは以下のように書いている。

 ヒュームの独創性、ヒュームの数ある独創性のひとつは、「関係は、関係する項に対して外在的である」とヒュームが力を込めて主張するところに由来する。(中略)関係とは何か。関係とは、私たちを、与えられた印象や観念から、現実には与えられていない何かの観念へと移行させるものである。たとえば私は何かに似た何かを思考する。ピエールの写真を見ると、私は、そこにいないピエールのことを思考する。与えられた項の中に移行の根拠を探し求めてもむなしいだろう。関係それ自体は、連合の原理、隣接の原理、類似の原理、原因性の原理と呼ばれる諸原理の効果であるし、これら諸原理がまさに人間の本性を構成する。人間精神における普遍的ないし恒常的なものとは、決して項としてのあれこれの観念ではなく、たんに特定の観念から別の観念へ移行するその仕方であるということ、これが人間の本性の意味するところである。(「ヒューム」小泉義之・訳『無人島1969-1974』河出書房新社、2003年、44頁)

 関係は、コマとコマの間にある。関係が、ヒュームのいうように、項(コマ)に対して外在的であるとするならば、「与えられた項の中に移行の根拠を探し求めてもむなしい」ということになる。つまり、コマとコマの関係が生み出すものの根拠は、コマの中にはない。むしろ、それは人間の本性として考えるべき問題となる。
 この考え方を整理すると、一般的にコマの配置ついて、少なくとも「時間性コマ配置」と「関係性コマ配置」という2つの異なった考え方でとらえることができる。
 時間性コマ配置は、「A+B+C=ABC」という図式で示される。コマA、コマB、コマCを続けて読むことによって、ABCという3つのエピソードが時間軸に沿って起きたような、ひとつづきの物語内容が読み取れる。ひとつひとつのコマがそれぞれエピソードとして理解可能な一定の内容をもっていることや、それが時系列を前提として並んでいることが疑われないような語り方である。
 一方、関係性コマ配置は、「A+B+C=D」という図式で示される。コマA、コマB、コマCは、個々にエピソードとして理解可能な内容をもっているとは限らないし、物語の時間の順序に従っているとも限らない。コマ間になんらかの関係性が読み取られることによって、Dという物語内容を読者が自ら見いだすような語り方である。
 一見同じように見えるコマの並びも、その読まれ方から検討するならば、大きな違いが見出せる。
 ただしルルスの『小約言』の物語表現においては、「関係性コマ配置」の使われ方は教義内容の説明などにきわめて限定されており、基本的な物語の進行は「時間性コマ配置」の考え方で行なわれているように見える。他のヨーロッパのミニアチュールの事例を見ても「コマ割り」風の表現は原則として「時間性コマ配置」であり、「関係性コマ配置」による物語表現に大きく踏み込んだ事例は、後の時代になってもなかなか見つけることはできない。
 ある意味では「コマとコマのモンタージュ」とも言うべき、「関係性によるナラティヴ」に重点を置いて後の歴史を俯瞰してみると、そこで重要な存在として浮上するのが、ヒューム(1711~1776年)と同時代にイギリスで活躍したウィリアム・ホガース(William Hogarth/1697~1764年)の作品である。

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2012.08.01

まんが史の基礎問題05■コマ割り表現の歴史

 まずは「コマ割り」から考えてみる。そもそも「コマ割り」まんがが成り立つために最低限必要な条件とは何だろうか。
 ここではそれを、「絵が複数ある」ことと考える。他の要素をすべて捨てても、「絵が複数ある」という要素だけは「コマ割り」まんがには不可欠である。それを本稿の根本的な立場とし、以後の検討を進める。
 絵が複数であることは、それが「数えられるもの」だということである。しかし、そもそも絵は数えられるものなのか。たとえば現存する人類最古の絵を見るならば、数えることは不可能である。10万年以上前といわれるアルタミラやラスコーの洞窟壁画を見ると、絵がいくつあるのかは数えられない。そこに描かれた動物などの個体数を数えることはできるが、どこまでがひとつの絵で、どこからが別の絵なのか、区別することは困難だ。中には、後の時代に上から重ね描きしたと思われる絵もあり、それらは加筆されたひとつの絵なのか、別の絵が同じ位置に存在するだけなのか、確定できない。
 絵が数えられるためには、区切られる必要がある。一定の領域が成立し、絵の範囲が明確にならないと、数えることはできない。それが、絵が複数であるための条件だ。区切ることによって、境界線が生まれ、絵の領域の内と外も出現する。我々は「絵を区切ること」の歴史を検討する必要がある。

 人はいかに絵を区切ってきたのだろうか。絵は一般的に大きく分けて、装飾などの副次的な存在として描かれる場合と、絵自体を目的としてメディア上に描かれる場合とがある。前者は、たとえば壷や楽器などの道具や建築物などを飾るものであり、紀元前から多くの「区切られた絵」が存在する。歴史的に見れば、これらにおいては領域を分割して活用するという行為は広く普通に行なわれてきたと思われる。そもそも「区切り」を刻み込むこと自体が、そのまま「飾り」にもなることを考えれば、ある意味では当然のこととも言える。
 後者は、紙や板などの「書かれるためのメディア」を用いたものである。画巻、書冊(本)、タブローなどが一般的だ。
 両者の区別は必ずしも明瞭ではない場合もあるが、「まんが」の歴史を考えるにあたっては、当面は「飾り」ではなく、表現としてメディア上で自立しているものを対象としていく。
 まずは、絵を描くための代表的な3つのメディアから問題点を引き出してみる。
・タブロー……1枚の絵
・画巻……展開する絵
・書冊(本)……ページ上の絵
 これらのメディアにはそれぞれの歴史があるが、ここでは詳しい説明は省く。形態からわかりやすく整理するならば、タブローは一般的に絵の領域がメディア(紙やキャンバスなど)の領域全体を占有するものであり、画巻は(原理上は)領域がひたすら先延ばしされてゆくものであり、書冊はページの一部か全体を絵が占めて、別のページに続く可能性があるものである。他にもメディアの形式はいろいろあるが、機能的に見るならば以下のように整理することができるだろう。
a.1枚のメディア上に、1つの絵(一般的な絵画)
b.1枚のメディア上に、複数の絵
c.1枚のメディア上に、数えられない絵(一般的な画巻作品)
d.2枚以上のメディア(本、雑誌、新聞、連作画)
 我々が主に検討すべきは、bとdである。
 bは、美術の歴史の中で見ていくと、古くは祭壇画や曼陀羅などの宗教的表現に多い。特に古くから事例が多いのはキリスト教美術である。仏教圏では絵を区切るという傾向は比較的少ないが、キリスト教圏では、わざわざ線で囲ったマス目に絵を描く事例が数多く見られる。聖書の内容を複数のコマ絵で表現したものは、遅くとも6世紀までには確認できる。印刷技術によってそのような形式の版画が本格的に普及するのは15世紀以降であり、内容もやがて宗教以外のものも増え、多様化していく。
 dでも、やはりキリスト教がらみのものが多く、古い事例は5世紀以前にさかのぼる。印刷技術以前の写本に描かれた挿画(ミニアチュール)には、コマ割りされた図像表現が多数見られ、現在のフキダシの原型と考えられる表現も見られる。
 b、dの歴史を仔細に検討するには、それだけで膨大な調査が必要であり、ここでは歴史を概観する作業にとどまるが、古い時代から順に各地の事例を見ていくと、少なくともヨーロッパ中世の彩飾写本のミニアチュールにおいて、特に表現が大きく拡張していることが感じられる。具体的には、
1.複数のコマが明らかに物語の時間順に並んでいく。
2.複数のコマを通じて明らかに同一の人物が登場して活躍する。
3.セリフが口から発せられている。
の3点が揃っていることである。この時代のミニアチュールが、このような特徴の最も早い事例ではないにしても、ここに多くの事例が集中的に見られることも確かであり、注目に値すると思われる。

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