2009年5月 3日 (日)

22■言語から記号へ

 パースはあらゆることを記号としてとらえた。我々が日常的に用いる「記号」という語の狭い意味にとどまることなく、言語の問題から、人間、宇宙にいたるまで、すべてを記号として考えた。だから、パースの記号論からすれば、まんがのあらゆる要素も記号である。絵も文字もコマもページも、すべて記号として検討対象になる。そのような思考のための概念を、パースは提供している。
 とするならば、これまで別のものとして扱ってきた「文字」や「絵」や「コマ」などを、同一の概念によってとらえ、総合的に検討することが可能になる。まんがの検討にとって、パースの考え方はきわめて刺激的であるといわなければならない。
 パースの思想は多岐にわたっており、記号についても広く細かい検討がなされている。一般的にパースの記号論でよく知られているのは、記号と対象の関係の3つの分類「イコン/インデックス/シンボル」だ。といってもパースは、記号と対象が二項的に相対すると考えているわけではない。記号は、それを解釈する別の「解釈項」を通して意味を持つと考えられており、対象・記号・解釈項の三つによる記号過程を想定している。解釈項はさらに新たな解釈項に媒介され、意味は連続的にダイナミックに展開していく。おのおのの記号も第一次性から第三次性まで3つに分類され、また、解釈項と記号の関係なども3つに分類される。パースの記号論は多くの点で3を基本としており、他のさまざまな問題点での分類の組み合わせも関係して、きわめて詳細な記号論が展開される。それらを体系立てることも、網羅することも、容易なことではない。だが、静的な記号学に比べて、動的な展開力を持つパースの記号論は、まんがのような展開性の強い表現を検討するには特に適しているように思われる。試しに「イコン/インデックス/シンボル」という概念を導入してみるだけでも、まんがの多くの問題を整理する上で非常に有効であることがわかるはずだ。
 たとえば、これまで度々問題にしてきた「まんが的な絵(戯画)とは何か」を、この3分類から検討し直してみるならば、ギブソンのいう「不変項」というとらえ方が可能なのは、対象との類似性であるイコン性においてであると考えられる(つまり感覚のレベルにおいてである)。インデックス性やシンボル性が強く現われる場合は(知覚され、認知されるレベルでは)、イコン性が希薄でも解釈可能である。以前に述べた「似ていないにもかかわらず等置すること」とは、イコン性の希薄なものをイコンやシンボルなどとして提示し、記号として解釈が成立することだ、と言いかえることができるだろう。まんが的な絵(戯画)は、単一の観点から検討すべきではなく、少なくともこの3つのレベルから検討される必要がある。
 絵はこの3つのレベルをさまよう。決して3種類の絵があるのではない。同じひとつの絵が、この3つのレベルをさまようのだ。たとえば、きわめてシンボル性の強い絵――手塚治虫のいう「記号的」な絵――だと思っていたものが、まんがの中で突如イメージとして感覚的に迫ってきて、驚かされることがある。いかにも「記号的」な絵でありながら、ある瞬間それが、意味未分化な原初的イメージとして現われ、強く心を揺さぶられる体験をすることがある。私にとっての手塚治虫のまんがとは、時としてそのような不意打ちをしてくる存在だ。それはおそらく、この3つのレベルの間で、どれとも決定できない状態に遭遇して揺さぶられる体験のようにも思われる。
 ――だが、そのように結論づけるのもいささか早計だろう。まずはパースの概念が示すさまざまな可能性を受けとめるべきである。

 我々は言語の問題を手がかりにして、まんがの検討に有効な概念を探してきた。しかしそろそろ問題は「言語」におさまらないところに来ている。言語を含む「記号」へと軸足を移すべきだろう。

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2009年5月 2日 (土)

21■推論すること

 まんがを読むという局面で、いったいどのようなことが起きているのか。その局面をいかに記述したらいいのか。
 単純に考えても、認知的な面からは、絵を読む、文字を読む、コマの配置を読む、ページを読むなどの問題点がすぐに思い浮かぶし、観点を変えれば、物語を読む、キャラクターを読む、情感を読む、空間を読む……などさまざまな立場からの検討が可能だ。ここでは問題を認知的な面に絞った上で、まずは「コマのつらなり」を読むことから考えてみる。絵、文字などは、他の分野とも共通する問題であり、まずはまんがらしい手がかりとして、コマに注目する。
 コマとコマが並んでいて、それらを次々に読んでいくとき、どのように解釈が成り立ち、意味が読み取られるのか。
 コマとコマは、それぞれ断絶している。それらをいくら並べても、単に断絶したものが並んでいるだけである。それらを次々と読んでいくときに、コマとコマの間を結合する「文法」は、以前に述べたように「と(and, et)」のみである(つまり、「これとは別のコマが存在する」という事実性のみである)。それ以上の明確な統語機能は、一般的なまんがにはない。にもかかわらず、その唯一の「文法」である「と」において、読者がさまざまな関係性を読み取り、解釈することで、多様な意味が産出されるとしたら、その得られた意味は、論理的に必然的なものではないだろうし、正当なものでもないだろう。それは文法的に正しい意味ではなく、「と」に込められた関係性を推定することによって得られた、仮定の意味である。
 ならば、我々が検討すべきは、そのような推定行為の実態であり、そこで働いている推論の論理構造である。読者はいかにして、ただの「と」から、多様な意味を導き出すのか。

 論理学において一般的な推論の形式は、演繹と帰納である。演繹(ディダクション)は、チャールズ・サンダース・パースによれば、分析的推論である。前提の中にすでに結論が含まれていて、論理的には誤ることはない一方で、形式的に閉じており、他の経験的な現実を参照する必要がないため、前提とされたこと以上に知識が拡張されることはない。
 帰納(インダクション)は、パースによれば拡張的推論とされる。帰納は演繹とは異なり、必然性ではなく蓋然性の論理であり、前提に含まれていないことを結論とする。だから、それが正しければ知識は拡張されるが、誤る可能性もある。
 パースはこの2つの他に、アブダクション(リトロダクション)という仮説形成法を第3の論理として示す。アブダクションは帰納と同様に拡張的推論であるが、帰納とは異なって、仮説を形成することによって新しい観念を導入する。パースは以下のように述べている。

 アブダクションは、説明のための仮説を形成する過程である。それはなんらかのあたらしい観念を導入する唯一の論理的な操作である。というのは、インダクションは、真偽の値を決定するだけであり、ディダクションは、たんに仮説の必然的な帰結をみちびきだすにすぎないからである。
 ディダクションは、あるものがこうでなければならない(must be)ことを証明し、インダクションは、あるものが現にこうである(actually is)ことをしめし、アブダクションは、あるものがこうであるかもしれない(may be)ことを暗示する。アブダクションを正当化するものは、ディダクションがアブダクションの暗示からなんらかの予測をみちびきだし、その予測がインダクションによってテストされるということである。そしてまた、そもそも私たちがなにかをまなび、現象を理解することができるとすれば、こうしたことの実現はアブダクションによるしかない、ということもアブダクションを正当化するのである。
(チャールズ・サンダース・パース論文集 5.171/魚津郁夫「プラグマティズムの思想」ちくま学芸文庫 から引用)

 アブダクションの論理は具体的にはどのように展開されるのか。米盛裕二によれば、パースは次のように定式化して説明している。

 驚くべき事実Cが観察される、
 しかしもしHが真であれば、Cは当然の事柄であろう、
 よって、Hが真であると考えるべき理由がある。
(中略)これらの仮説は「そのように考えるべき理由がある」、「そのように考えるのがもっとも理にかなっている」、「そのように考えなくてはならない」というふうに、ある明確な理由または根拠にもとづいて提案されているのです。そしてその理由または根拠はそれらの仮説にある程度の説得力、もっともらしさ(plausibility)を与えています。
(中略)
これは記号でつぎのように書き表されます。
 C
 H⊃C
 ―――
 ∴H
この形式が示すように、アブダクションは驚くべき事実Cの観察からそれを説明しうると考えられる仮説Hへのいわば「遡及推論」(retroduction)です。しかしこの式は後件Cを肯定することによって先件Hを肯定しているものであり、それはつまり論理学でいう「後件肯定の誤謬」(the fallacy of affirming the consequent)をおかしており,形式論理の規則に反しています。
 しかしパースはいいます、「アブダクションは論理的諸規則によって拘束されることはほとんどないが、しかしそれにもかかわらずそれは論理的な推論であり、アブダクションはその結論を問題的に、または推測的に言明するにすぎないことも本当であるが、しかしそれにもかかわらず、それは完全に明確な論理的形式を有するものであることをおぼえておかなくてはならない」(CP:5.188)。ここでパースがアブダクションは明確な論理的形式を有するといっているのは、もちろん形式論理的に妥当な論理的形式を有するということではありません。(中略)しかしパースの推論の概念にしたがえば、逆に、つぎのようにいうこともできるでしょう。すなわち、「心をもっとも必要とする目的、つまり、未知について推測するという目的にとって、演繹は役に立たない。それにもかかわらず、演繹的推論を正しい推論のモデルとする昔ながらの虚偽(ファラシー)のため、すべての困難が生じている。そのことは、少し考えれば明らかになる。演繹において、われわれは既知について単に手を加えているにすぎず、暗黙裡に知っていることを取り出して明確にするだけで、新しい情報は何も得られていない」。(中略)「人は諸現象を愚かにじろじろみつめることもできる。しかし想像力の働かないところでは、それらの現象はけっして合理的な仕方でたがいに関連づけられることはない」
(米盛裕二「アブダクション 仮説と発見の論理」勁草書房 より引用)

 アブダクションは誤謬の可能性をもっているが、新しい観念を導入する唯一の論理的操作である。それによって作られた仮説は、演繹によって検証の形を整え、帰納によって検証が行なわれ、正しいと推定される。
 この一連の流れは、まんがのコマを読み取る局面にも適合するだろう。つまり、コマBに続いて、驚くべき事実であるコマCが観察されたとき、読者は仮説Hを形成し、文脈(ストーリー、状況の連続性、キャラクターの同一性、経験的現実など)の正当性を参照することにより帰納的に検証し、その読み方が正しいと推定して、さらに次のコマDに進む。そこで観察された新たな驚くべき事実Dは、仮説Iを生むだけではなく、仮説Hに遡及して検証し直し、より熟考的に推論が進んでいく。
 もし、驚くべきコマCに出会っても、仮説Hを形成できなかったときはどうなるのだろうか。読者はHの内容が空白のまま保留し、次のコマDに進んで、そこから遡及的にHを形成可能かどうかを試すことだろう。それでも形成できなかったときは、さらに同様のことが繰り返される。一般的に「わかりにくいまんが」「難解なまんが」「詩的表現」と呼ばれるものは、そのような読まれ方がなされているように思われる。ある時期の佐々木マキや林静一などの作品は、その典型であろう。仮説が形成できないという経験の中で、保留を積み重ねていく先に、なお、意味ともいえないニュアンスのようなものが成立するかどうか。あるいはノイズ混じりで混乱した仮説を積み重ね、それらと戯れることを楽しむかどうか。
 アブダクションという考え方は、コマの解釈を論理的に検討する上で、きわめて有効であるように思われる。

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2009年4月24日 (金)

20■まんがを読む行為論

 ここまでの検討で明らかになったように、「作品内の発話(作品世界内のキャラクター・コミュニケーション)」は、単純に発話の問題として考えることができない。その理由は第一に、作品が虚構であり、ことばが「せりふ」に類するものであることだ。作品内の発話について、その作品世界に内在する立場(作品の「ごっこ=メイクビリーブ」内にとどまる立場)で検討し評論することは、「ごっこ」を共有せよという他者への要請であり、感想や主張に類するものである。まんが一般の問題として批評的に検討するのであれば、我々はそれを「作品の発話(作品と読者の間のコミュニケーション)」レベルを踏まえてとらえるべきである。第二には、エクリチュールの問題である。まんがは書かれたものであり、イメージを配置する表現でもあるから、ことばについても言語学の「発話」の範疇ではとらえきれない問題がさまざまに関わる。
 まんがの中の重要な要素である「ことば」をピックアップして、言語学の見地から一般的に検討することは、当初の見込みとは異なり、容易なことではない。

 上記のふたつの理由のうち、第一の「作品の発話」の問題を考えるには、まんがを「読むこと」や「解釈すること」を検討すべきである。「まんがを読む行為論」が必要である。それには、これまでに触れてきた語用論的なアプローチが有効であると考えるが、言語の問題をそのまま直接応用するのは困難である。我々は語用論(プラグマティックス)にとどまらずに、より根本的な概念にさかのぼって、まずはプラグマティズムの見地から、まんがを検討してみるべきだろう。

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2009年4月17日 (金)

19■書かれたことば

 以前にも述べたように、文字は書かれたものである以上、音価を持つ言語記号であると同時に、イメージでもある。この両面性については、さまざまな指摘がなされてきた。たとえばフーコーはマグリットの絵について述べる中で、カリグラムを例にして以下のように書いている。

 (前略)カリグラムが用いるのはあの文字の特性、すなわち空間内に配置し得る線状の要素としての価値を持つと同時に、音声的実質のひとつらなりの連鎖に沿って展開せねばならぬ記号としての価値をも併せ持つ、という特性である。記号として、文字は言葉を定着することを可能ならしめ、線として、事物を象ることを可能ならしめる。かくしてカリグラムは、示すことと名ざすこと、象ることと言うこと、再現することと分節すること、模倣することと意味すること、見ることと読むことといった、われわれのアルファベット文明の最も古くからの対立を、遊戯的に抹消しようとするのである。(ミシェル・フーコー「これはパイプではない」豊崎光一・清水正/訳、哲学書房 より引用)

 文字を言語記号として読む時は、イメージとしての文字は逃げていく。しかしイメージとして見ようとするならば、言語記号としては読まれなくなる。そのような両面を持っているのが文字である。カリグラムと同様に、文字の配置(レイアウトや描き文字など)によって文字のイメージ性を呼び覚ますまんがは、小説などと異なり、その両面性が問題として立ち現われる。
 文字を禁欲的にただ言語記号として読む慣習的な態度は、まんがの平面に文字が配置されることで揺らぎ、読者はイメージとしての文字を感じはじめる。そのようなイメージ化に抗して、禁欲的な扱いをするよう命ずる装置が「フキダシ」であり、「活字」であると考えられる。特に日本のまんがでは、この2つは、その文字をただ言語記号として受けとめるよう、読む者に働きかける約束事として機能しているように思われる。

 まずフキダシについて。フキダシにはさまざまな形状があるが、一般的に「囲み」であり、絵から独立した領域を示す枠である。それは現在の日本のまんがにあっては、画中にありながら画の権力が及ばない「画中の治外法権」領域であり、イメージ化に抗して文字を保護するための障壁として機能している。フキダシはただの文字用のスペースではない。文字がイメージとして読まれることの拒絶という役割を持っている。だからこそ、イメージを操るまんが家は、フキダシ内というイメージの治外法権領域については、支配権を編集者に明け渡して処理を委ねる気持ちにもなれるのだ。(商業誌においては慣習的に、フキダシ内の文字の書体や大きさなどは編集者が指定する。ただしDTP化によって状況は少し変わりつつある)
 以前の西村清和のフィクションの定義にならって言うなら、フキダシについて次のように言えるだろう。フキダシとは、「この枠の中の文字のいっさいを、イメージとしてではなく、ただ言語記号として受けとめよ」という指示規則を提示するものである。
 もちろん、それに収まらない側面もあるし、反する作例もある。規則といっても、規約としてどこかに示されているようなものではない。これは、メタ・コミュニケーションとして、そのようなものが作品から提示され読者が受けとめているという、現在のまんが(特に日本のまんが)の一般的なありさまを述べたものだ。現在のほとんどのまんが作品は、暗黙のうちにそのような指示を行なっており、それを前提として成立している。指示をはみ出すような表現は、多くの場合その前提があるからこその効果を意図しており、やはり前提を共有しているように思われる。

 「活字」も同じようなことを指示する。つまり、「活字で示される文字のいっさいを、イメージとしてではなく、ただ言語記号として受けとめよ」ということだ。もちろん、活字にもさまざまな書体があり、大きさや太さが変化する以上、イメージとしての効果が期待されてはいるが、かなり限定されたものである。(しかもそのようなイメージ効果は多くの場合、編集者による指定の結果であり、効果はきわめて不安定なものでもある)
 「活字」によってイメージ性が減ずる理由は、その形状の一定さだけではなく、社会的・歴史的な背景もある。活字になる文は、公的に承認されるべき体裁が整ったものであって、内容にもそれだけの価値があるという権威的な考え方が、長い間支配的であったように思われる。1980年代以降の日本社会に生きる者にとっては、活字は生活の中でもありふれたものであり、パソコンとプリンターさえあれば、個人でもすぐに操れるものだが、それ以前はそのような機会はほとんどなかった。手書きという私的なものと、活字という公的なものの間には、社会的なステイタスの差が明確に存在し、活字化される内容は「社会的に価値が承認されたもの」という印象が広く共有されていた。(たとえば、手書きの同人誌が貧相に見える一方で、和文タイプによる同人誌がどれだけ立派に見えたことか)
 かつては、手書きという私的なイメージの要素を濾過して言語記号だけを抽出し、純粋で公的なことばを印刷することが「活字化」だったのだ。文字に関してイメージ的なものは夾雑物であり、除去されることが、社会的なシステムに承認されることでもあった。

 このようなことを踏まえると、なぜ日本のまんがのフキダシ内の文字は、こんなにも活字ばかりなのか、という問いも興味深いものに思われる。このことを私は、まんが研究をしているアメリカ人の留学生に指摘されて、はじめて意識するようになった。おそらく、ここまで徹底的にフキダシ内に活字を使いたがるのは日本だけであり、海外のまんがやそれに類するものは、伝統的に手書きが多い。
 日本のまんがはいつからフキダシ内に活字を導入し、定着したのか。いつからさまざまな書体を使いこなすようになったのか。これは歴史的な問題として、きちんと研究される価値があるだろう。もともとまんがは、新聞や雑誌を媒体としてきたため、絵の周囲に活字は自然に組み合わされてきた。しかし、ことフキダシの中となると、意味は大きく異なる。
(このことについて私の印象を述べるなら、戦前の「少年倶楽部」の連載作品(たとえば「のらくろ」など)が大きな節目になっているように思われるが、きちんと資料を揃えて検討したことはないので、確証はない。ただひとつ言えるのは、そこには編集者(特に雑誌編集者)というものが関わっており、特に子ども向け雑誌特有の「教育的」姿勢が影響しているのではないかということだ。手書き文字は、誤字脱字があった場合に訂正が面倒なので、活字にしてしまった方が編集者は便利である。特に子ども向け雑誌の場合は、わかりやすい字で、わかりやすい文で書かれるべきであり、雑な筆跡や、誤った表現は、教育的配慮で訂正される、というのが編集者の考え方である。現在でもこの空気は伝統的な少年誌などには強く残っており、編集者が「よりよい表現」にしようと教師気分で無断でネームを変更してしまい、それが時として単に愚かな改竄となって、まんが家とトラブルになることは、日常茶飯事である。日本のまんが雑誌では、多くの場合まんがのネームは「まんが家のもの」とは認められておらず、かなりが雑誌編集者の支配圏にある)

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2009年4月13日 (月)

18■虚構内の発話

 虚構や、虚構を発話することを検討したところで、問題を「虚構内の発話」に戻す。
 前項で整理したとおり、虚構を読む者はそれが虚構だということを慣習的にわかっている。しかしそのような慣習は、「昔々あるところに」などの決まり文句や口上などがなくても、実際には多くの場合、ただせりふや文章を読むだけで了解されるのではないか。
 佐々木健一は、前出のように「台詞の本質は、自然的と約定的という二つの表現レベルを重層化していることにある」と述べている。つまり、せりふということばのあり方自体が「演劇的」である以上、そこにはすでに約束事が入り込んでいるということだ。そのような問題を検討するのに、佐々木はまず「モノローグ」に注目している。ここで改めて、モノローグの問題から、作品内の発話を検討してみる。

 モノローグという語は、佐々木によれば15世紀頃にフランスで造語された演劇用語であり、それが現実世界に転用されるようになったのだという。つまり、それはもともと、現実のありさまを指すことばではなかったということだ。
 演劇では、モノローグは実際に発声される。演劇ではどんな言語表現も、原則として発声という同じレベルで行なわれる。そこに演劇特有の面白さがある。まんがでは、言語表現はすべて文字で書かれたものであるから、演劇と同じような意味でのモノローグはありえない。その点では、我々はモノローグという用語をまんがに安易に使いすぎているようである。
 佐々木は演劇のモノローグを「一人きりの台詞のうち、内世界的地平を越えず、しかも非コミュニケーションの言葉として発せられるものである」としている。演劇では、実際に声に出さないとせりふを表現できないため、「発声されたが非コミュニケーションの言葉」という定義があてはまるが、まんがでは事情が異なるため、結果的には「発声せずに心の中だけにあることば」という用いられ方が一般的になっているように思われる。「発声しない」という点に重心がかかるのだ。

 とするならば、まんが(や他の書かれた作品)の場合、実際に声に出さないせりふが他人にわかるように書かれてある、という事実だけで、それはすでに作品としての約束事として感じられ、「これは虚構である」というメタ・コミュニケーションの明らかなサインになるはずである。現実世界では、発声しないかぎり他人にはそのことばはわからないからだ。
 しかも、そもそも「発声せずに心の中だけにあることば」ということ自体、どこか現実離れしているようにも思われる。我々は普段、どこまで心の中でことばを発しているだろうか。
 たとえば私が物思いにふけっている時、私の頭の中には具体的なことばが飛び交っているのだろうか。それとも、未だ言語化されないカオスのような思念が渦巻いているのだろうか。もしことばが飛び交っているとして、それは文として成立しているものなのか、それともことばの断片があたかもイメージのように入り乱れているのか。
 私が何かを思った時、それは「思った」かぎりにおいて、すでに言語として成立しているのだろうか。思惟とは、言語化されたもののみを指すのか、それとも前言語的な思惟というものを想定すべきなのか。想定すべきだとしたら、それはどのように言語で検討されうるのか。
 そのような面倒な問題はさておくとしても、少なくとも、きちんと文に表現された一般的なモノローグは、あくまでも他者(読者)が理解できることを意図した文芸的な表現であって、人間の内面の情動をありのままに抽出した何かではないことは、明らかだろう。それは、キャラクターのリアルタイムの情動を反映しているように見えながら、実際にはキャラクターの心理を反省的に言語化したものであり、読者に向けたことばとして書かれている。
 そのような意味で、まんがのモノローグは、「これは虚構作品内の発話である」というメタ・コミュニケーションのともなった発話であり、どんなに自然に見えたとしたも、前提として必ず「芝居がかったもの」である。つまり、モノローグを書くことは「虚構作品を発話する」という行為に明瞭に結びついているのであって、「虚構作品の発話」と「虚構作品内の発話」の境界は、実はそんなに明確なものではないといえるだろう。

 ならば、それはモノローグに限ったことではない。前に述べたとおり、ディアローグとモノローグの境界も実は明確なものではなく、いつのまにか移行しうるのである。モノローグに限らず、まんがのせりふはそれ自体にいつも「これは虚構である」というメタ・コミュニケーションが、多かれ少なかれともなっている。(このようなことの意識が、たとえば前に指摘したような手塚治虫の楽屋落ち表現の多用、しかもシリアスで大事な場面に使われたりすることの背景にもあるように思われる。あらゆるまんが表現の中には、いとも手軽にメタ・レベル表現へ移行する契機が含まれている)

 さらに、まんがには配置(レイアウト)という問題が加わる。
 演劇においては、原則としてせりふはすべて人間の実際の発話であり、同一の地平で検討しうるが、まんがの場合はせりふがキャラクターの表現から離れて、自由に配置されることが可能であり、それがどのような発話であるのかわからなくなる。配置によって、せりふの主体やレベルや時制などはいかようにも変動してしまう。そもそも、発話なのかどうかさえ、はっきりしなくなり、「せりふ」というよりも、ただ「ことば」として画面上に存在するようになる。それは、まんがのことばが「書かれたもの」であり、イメージとして配置しうるものである以上、もはや「発話」という言語の問題の応用ではとらえきれない領域に達するということだ。
 作品内の発話(せりふ)について、言語学的な検討を加えることは、ある特定の作品に限定した場合はそれなりに有効な方法であるが、まんがの問題として一般化するのは、きわめて困難だと思われる。

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2009年4月 7日 (火)

17■虚構の発話

 前に述べたように、まんがは一般的に虚構を提供することを目的に作られた作品である。
 ならば、「虚構作品内での発話」とは、どのようなものか。前々項では「せりふ」の問題を中心に考えたが、それ以外の面も含めて、虚構作品内で発話という行為をすることを、どのように考えたらよいのか。また、そもそも「虚構を発話する」とはどういうことか。
 そのためには、まず「虚構とは何か」を考えなければならない。
 虚構と、現実の言説との違いはなにか。単に「事実に反する」ということであれば、それは嘘や偽の命題である。それらとは異なった「虚構」とは、どんなものか。
 三浦俊彦は「虚構世界の存在論」の中で、「小説、劇、映画などの虚構は、直観的に言ってそれぞれ、現実世界に似たある世界を表現している」と述べた上で、「現実の出来事や対象から文学作品・芸術作品を区別する一つの重要な契機」として、「未規定箇所」「不確定性」「空白」などを検討の手がかりとして示す。具体的には、以下のようなインガルデンの説を紹介している。

 いかなる種類の芸術作品も、そのさまざまな諸性質の一次的レベルによりあらゆる点にわたって確定されているような物ではない、という顕著な特徴を持っている。言い換えれば芸術作品は、決定に際して、それ自身のうちに特有の空白、すなわち不確定性の領域を含んでいる。つまり作品は、図式的創造物なのである。さらには、作品が持つ全ての決定因子・構成要素・諸性質が現実性の状態にあるわけではなく、その中には単に潜在的であるものもある。その結果芸術作品は、いわばそれを具体的たらしめるためにはそれ自身の外側に存在する行為者、つまり観察者を必要とするのである。鑑賞における共-創造的な行為を通じて、観察者は、作品を「解釈する」と一般に言われていることを行なう。あるいは、作品の有効な諸特徴の中で作品を再構成することを行なう、と言った方がよかろう。こうして観察者は、作品それ自体からくる示唆に影響されつつ、不確定性の領域を少なくとも部分的に充填し、まだ単に潜在性の状態にある種々の要素を現実化することによって、作品の図式的構造を埋める。このようにして、芸術作品の「具体化」(concretion)と私が呼ぶものが訪れるのである。(「虚構世界の存在論」勁草書房 より引用)

 虚構作品は、ある世界についての有限な記述の集まりであり、その「世界」について書きつくすことはできない。そこにある記述がすべてである。だから「書かれない部分」は、単に空白である。どこかに存在するがたまたまそれを書いていないわけではない。受け手はそれを想像によって補いながら、受けとめていくことになる。(ただし、観察者による「具体化」という考え方については、三浦により批判が加えられている)
 つまり虚構とは、現実の世界とは異なったものだと了解した上で、受け手がその空白を補いながら、現実と同等であるかのような「メイクビリーブゲーム」(三浦)つまり「ごっこ」の中にいるべき世界を描写したもの、ということだ。受け手は、虚構世界を現実だと誤解したからその中にいるのではなく、虚構世界だとわかった上で、すっかりその中にいるのだ。
 虚構は、「それが虚構である」という意識が前提となる。ならば、そのような意識は、どこから来るのだろうか。受け手はどのようにして、それが虚構であるという意識を持つのだろうか。
 そのことについて西村清和は次のように述べている。

 「これは小説である」というメタ・コミュニケーションを可能にする慣習としては、「むかしむし、あるところに」といった素朴なきまり文句から、小説らしいタイトル、または宣伝文句など、さまざまなものがある。映画などのように、わざわざ「これはフィクションであり、偶然現実のだれかを指示することがあっても、関係はありません」とことわるばあいもある。いずれにせよ、これらの「フィクションである」とのメタ・コミュニケーションは、「このフィクションのなかの文のいっさいを、これが描写している虚構世界への指示にもちいよ」という指示規則を呈示するものである。
 なるほど、ラクロの『危険な関係』やルソーの『新エロイーズ』のように、現実の指示の「ふりをする」ばあいもある。だが、これは、小説のひとつのストラテジーとしての偽装である。(「フィクションの美学」勁草書房 より引用)

 文末にある「偽装」ということが、送り手と受け手に合意されるようなメタ・コミュニケーションは、いかにして可能になるのか。西村が指摘しているのは「慣習」だ。それが虚構であるかどうかは、慣習によって決定される。先に引用した三浦も、以下のように述べる。

 虚構の外延は何か。「虚構」という概念は、たとえば「文学」「芸術」といった概念よりも、制度的に定義する(外見や機能よりも社会によってどう扱われるかによって認定する)ことがふさわしいように思われる。サールは「作品が文学かどうかを決めるのは読者で、虚構かどうかを決めるのは作者だ」(Searle,1975;59)と言う。読者(とくに無知な)は機能・現象・に感応し、作者は制度的扱いを指令するという観察であろう。(「虚構世界の存在論」)

 虚構かどうかが社会的・制度的に決まるということは、神話を例にするとわかりやすい。神話は、現在の我々にとっては古典的な虚構に見えるが、語られた当時の人間にとっては「日常経験を解釈する有用な概念図式」(クワイン、西村)であり、現在の我々にとっての科学理論などと変わりはしない。つまり、神話は「虚構である」という意図とは無縁のものであり、受け手にもそのような了解がなかったということだ。それが今となっては大きく印象が変わり、神話になかったはずの「作者の指令」が、慣習的に前提されてしまう。
 虚構は、それが虚構であるというメタ・コミュニケーションに支えられており、それは社会的・制度的な文脈によって支えられている。よって、虚構の発話は、「虚構の内容を伝えようとする意図明示的伝達行為」という形でとらえれば、語用論的な考え方をそれなりに応用して検討できるだろう。
 ただし、そこには注意すべき大きな問題もある。虚構の発話について西村は、その存在論的身分が取り違えられやすいことを指摘している。

 われわれとしては、「現実について語る」ことと「フィクションを語る」こととは、発話が「経験に接する」かどうかの点で、その存在論的身分においてことなっている、といわざるをえない。すでに見たように、「フィクションを語る」とは、「これはフィクションである」つまり「ここで発話されるすべての主張文を、虚構世界を指示するものとせよ」というメタ・コミュニケーション的了解と慣習のもとで、作者が虚構テクストをを発話すること、そして、これによって虚構世界を造形し創造することである。「小説を書く」ということは、自分の現実経験の断片を記述し報告し、解釈するのに適した一定の概念図式を発話する認識行為ではなく、一定のイメージやキャラクターの造形、描写、構築である。それゆえ、ここで実在するのは、アンナやホームズや光源氏といった、虚構世界にすむひとりの「人間」、つまりあの「虚構内存在」ではなく、ちょうどキャンヴァス上に描写されたリンゴの視覚的イメージとおなじ意味で、端的に、これら人間の「描写」であり、言語的イメージである。
 ここでわれわれは、「フィクションを語る」独自のふるまいと、「フィクションについて語る」ふるまいとを、混同してはならない。作者による「主張のふりをする虚構的言説」と読者による「フィクションについての本気の言説」というサールの区別を、ローティが「Xについて語る」ことの徹底したプラグマティズムによって無効にしたとき、また野家が、科学や宗教をも、フィクションとおなじ資格で「物語」と呼ぶとき、かれらには、このふたつのことなったふるまいについての混同があるように思われる。もちろん、この混同は、科学や神話の言説とフィクションの言説を、おなじものと見る混同に由来している。
(中略)
 われわれは、虚構的言説にかんして、四つの行為レベルを区別する必要がある。第一に、虚構テクストの発話行為としての「小説を書く」作者の、虚構世界を描写し構築する行為であり、第二に、テクストのなかの個々の主張文を、じっさいに虚構世界への指示にもちいる語り手ないし登場人物のふるまいであり、第三に、テクストの主張文を、フィクションの慣習にしたがって虚構世界への指示として読み、小説を経験する読者の行為であり、第四に、そのような現実の読書経験に接して、テクストや虚構世界、さらには現実世界について主張する、批評的言説の行為である。そして、これら四つの行為レベルのなかで、批評的言説のみが、科学や宗教、神話といった発話とおなじ資格で、認識論的真理性にかかわる。われわれが見たように、論理学者が虚構的言説の存在論的身分を論じるさいの混乱は、小説を読む行為、つまり虚構的言説の指示にしたがって、虚構世界を経験する行為を、批評的言説の主張の行為と混同した点にあった。(「フィクションの美学」)

 虚構の発話は、世界を造形し創造する「描写」だという点に、西村は注意を促している。西村によれば、たとえば物理学者が素粒子についての仮説を提示するとき、指示されている素粒子は実在しており、他の学者も同等の資格で同じ素粒子について語りうる。一方、フィクションの中のキャラクター、たとえばシャーロック・ホームズの場合、実在するのはホームズではなく、ホームズの「描写」である。だから、我々が素粒子と同様に現実指示して語りうるのは、「ホームズ」ではなく「ホームズの描写」である。つまり、キャラクターではなく、キャラクターの描写である。
 我々は、「虚構的言説の指示にしたがって」キャラクターを経験する行為と、そのような経験について述べる行為を、分けて考える必要がある。つまり、メタ・コミュニケーション的了解のもとで、メイクビリーブの中にいて「キャラクター」を経験することと、そのような経験をふまえてキャラクターや作品世界や読書経験について述べることは、異なった行ないであるということだ。

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2009年4月 3日 (金)

16■手塚治虫の「伝達意図」

 前項で述べた、「意図明示的「意図明示的伝達行為」」という考え方は、どこか手塚治虫の作風を思い起こさせる。手塚は多くの場合、「伝えたい内容=情報意図」を表わすだけではなく、「伝えたい内容を伝えようとしていること自体=伝達意図」を表現に強くにじませていたように感じられるのだ。もちろんそれは手塚だけのことではないが、手塚はその姿勢が強く印象に残る。
 たとえば、シリアスな展開のさなかに描かれる、ギャグによる作者のツッコミ。登場人物が、あたかも登場人物として自分を意識しているかのような表現――自分がまんがの中の役者にすぎないことを自覚したかのような態度――など、楽屋落ち的な表現が手塚の作品にはよく見られる。そのような表現は、「キャラクター同士が意図明示的伝達行為をわざわざ演じて見せているのだという、読者に対する意図明示的な態度」を感じさせる。(これは、たとえば落語の語り口などにもよく見られる)
 手塚は自らの表現を「記号的」であるとした。しかしその「記号的」という用語は、そのことばだけに注目すると、「写実的でない絵」「リアルでない絵」という画風の問題として受けとめられやすい。手塚のいう「記号的」とは、むしろ「意図明示的」ととらえた方が、理解しやすいように思われる。
 手塚は、描いた絵がイリュージョンの効果を発揮してまるで現実のように感じられる、という手法をとらない。むしろ、絵を描くという行為に込められた意図の伝達を重視している。
 絵はしょせん絵でしかない。だから、絵で何か現実的なものを表現しようとすることは、しょせん託せないものに託していることになる。手塚は、そういう限界を自覚している。少なくとも、自分の絵をそのようなものだと思っている。だから「Aを写実的に描いて、そのまま提示すれば、読者にはAが伝わる」という素朴な考え方は用いられない。むしろ現実のAとは大きく隔たったaというしるし(手塚がいうところの記号的な表現)を描いて、aの貧弱で類型的なありさまを見せつけることで、そんな貧しいものにあえて託しているのだという態度を露わにし、そのことによって「Aを伝えたいのだ」という伝達意図の方を浮き彫りにする。そこに、描きえないはずのAが、「そうではないもの」としてかいま見られる。
「これはしょせんAなんかではない」という否定性において、描きえないはずのAが、そこに示されるのだ。
 手塚作品が、本人のいう「記号的」な表現を通じて、余人の及ばないスケールの大きな物語を描いたり、深い感銘を残したりすることの背景には、そのようなことが関わっているようにも思われる。描こうとしているものが、まんがという器では収まりきらないにもかかわらず、それを描こうとして限界を露呈すること。その表示の不適合性において、その大きな何かはむしろ表示される。
 ジョルジョ・アガンベンは「スタンツェ」の中で、「固有でないもの」つまり象徴的=寓意的形式について、以下のように指摘している。

固有でないものの根拠付けは、一種の「不一致の原則」と呼ばれる。それによれば、神聖なるものに関しては肯定よりも否定の方が、より真実でよりふさわしいため、類推や類似による表象よりも、不一致や隔たりによる表象の方がいっそう適しているとみなされる。別の言葉で言えば、不適切な表象は、まさにそれが神秘的な対象に対して不適切であるがゆえに、反語的に「相違ゆえの適性」と定義しうるものが与えられるのである。(「スタンツェ」岡田温司・訳 ちくま学芸文庫)

 続けてアガンベンは11世紀のフーゴーの言葉を引用する。「似ていない像の方が、似ている像よりもいっそう、物質的で形あるものからわれわれの魂を引き離してくれ、魂が自分の中で安らぐことを許しておかない。その理由は、あらゆる被造物は、いかに完璧であっても、無限の距離によって神から隔てられているという事実にある。……それゆえ、このように神のあらゆる完璧さを否定することで、神とはいかなるものでないかを伝える方が、もろい完璧さを通じて通じて神とはなんであるかを説明しようとすることよりも、いっそう完璧な神の認識になるのである。」

 このような指摘は、手塚の「記号的」表現を考える上で、ひいてはまんが的な表現を考える上で、きわめて示唆的である。この問題は、ジャック・デリダが「絵画における真理」で展開した「崇高」をめぐる論議(人間的な尺度を超えた「崇高」が、尺度を超えているということにおいて、いかに出現するか)にも関わることだろう。崇高の問題は他にも広く論議のなされていることだが、たとえばデリダが同書で展開している「パレルゴン」としての枠線の問題などと密接に結びついている点で、手塚の問題のみならずまんが表現に広く関連することである。

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2009年4月 1日 (水)

15■まんがの発話【3】作品内発話

 作品内でなされる発話について検討してみる。作品の中の登場人物や、それに類するものが発話する場合、一般的な言語の発話の問題を応用して考えることは、どこまで妥当だろうか。
 まんがの中の言語表現は多岐にわたる。まずは最もわかりやすそうな例として、登場人物同士が会話する場面を想定してみよう。この場合、発話はせりふとして表現される。同時に、絵やコマ割りなどは文脈を生み出し、読者が発話を解釈するための情報を与えてくれるだろう。また、そのせりふの方も文脈を生んで、絵やコマ割りを解釈するための情報ともなるだろう。前項で検討した語用論の考え方が広く応用可能であるようにも思われる。まんがのことばと、絵と、コマ割りなどの役割や連携のありさまを、そのような観点から整理してみることは、それなりに実用的であると思われる。
 問題なのは、それが演劇的なせりふであり、日常会話とは明らかに異なった種類の発話であるということだ。ある人物の発話は、他の人物へ向けられていると同時に、それを読んでいる読者を意識して発せられている。つまりその発話は、聞き手キャラクターの認知環境へはたらきかけようとしている「ふり」をしながら、実は読者の認知環境へはたらきかける意図をもっている。いわば、「意図明示的「意図明示的伝達行為」」という様相を呈することになる。その時、会話は自然的なものというよりは、どこかドラマの約束ごとめいたものとして受けとめられる。
 佐々木健一は次のように述べている。「台詞の本質は、自然的と約定的という二つの表現レベルを重層化していることにある」(「せりふの構造」筑摩書房)
 せりふが本質的なところで重層化しているとしたら、それがどのレベルで、どのようなつもりで語られているのかは、厳密には決めることができない。たとえばディアローグとモノローグが、自然に移行してしまうものであることを佐々木は指摘している。

 例えば長台詞について、形としてはディアローグの部分的肥大であるが、感じとられる実質はモノローグである、ということを指摘した。(中略)二人の間のアナログ的距離こそが、ディアローグからモノローグへの自然な移行のバロメーターである。極端な場合を想定してみれば、台詞のトーンを変えずに、相手役の位置だけ変化させるという実験ができるであろう。すると台詞そのものの実態は変わらないにもかかわらず、相手役の位置によって、ディアローグと感じとられたりモノローグと感じられたりする、ということがあるものと思われる。(同)

 佐々木の分析は演劇のせりふが対象であり、生身の人間が舞台の上で発話することを想定しているが、この件についてはまんがでも同様に考えられるだろう。会話であるはずのせりふが、実質的にはモノローグめいてくる場面は、ひんぱんに見られるように思われる。まんがの会話シーンで、話者だけがクローズアップになったコマは、場合によってはモノローグとして検討できるのではないか。せりふ内容も、いつのまにか会話ではなく「宣言」や「口上」めいてきはしないか。
 このように考えてみると、まんが編集者である筆者としては、ひとつ思い出されることがある。島本和彦「逆境ナイン」の連載を担当していたとき、筆者はひとつの方針を決めた。それは、せりふの文字書体を決める際に、「大声」と「モノローグ」を同一に扱う方針をとったことだ。つまり、強く口から発せられたせりふと、口から発しないで心の中だけで思っているせりふを、同じものと見なすということだ。それは、島本作品の中ではもともと区別がつかないことが多いし、つけない方がこの作品に合っていると感じたのだ。どちらも原則として同じ写研の書体ゴナE(とその前後のウェイト)を用いたが、結果的にそれは妥当な判断だったと思っている。それは、キャラクターの心の中で確かに念じられたことばであり、実際に音として口から出たかどうかは、まんがの表層上は大した問題ではない。たとえ音として聞こえていても、伝わらない相手には伝わらないし、伝わる相手には、音がなくても当然のように伝わるのだ――この作品の世界の中では。だから、モノローグとディアローグの境目もあいまいである。モノローグだと思っていると、いつのまにか他のキャラクターもそのことばに巻き込まれている。「実際に音がしたかどうか」にこだわることは、まんが表現においては時として無意味なのだ。
 ちなみに、現在新版として刊行されている小学館のコミックスでは、かつて私が指定した文字はすべて取り去られ、新たな文字に入れ換えられ、大声とモノローグは違う書体で区別されている。しかし、新版を担当した編集者は、どうやってこの2つのせりふを区別したのだろうか。少なくとも私には無理である。

 佐々木は、せりふを以下のように分類している。
 ディアローグ/デュオ/事件報告/宣言/口上/モノローグ/傍白
 他にも「祈り」や「うた」など、細かく指摘されているが、これらすべては、発話の状況を反映したものと考えられている。

(前略)言葉というものが、それの用いられる具体的な状況に深く根ざしたものであり、そして逆の言い方をすれば、その状況そのものの上に浮かび上ってきた現われに他ならず、言わばこの状況の徴候(symptom)の如きものである。(同)

 このような考え方は興味深いが、そのまままんがに応用するわけにもいかないだろう。役者が舞台の上で演じるせりふは、必ず誰か生身の人間の口から出たものであるが、まんがの場合はフキダシの中のせりふばかりとは限らない。口から発せられないことばが、さまざまな形で用いられる。その点で、まんがの場合は、状況というモードが切り替わらなくても、配置された文字が勝手に作品の中を浮遊する。だから、状況によってディアローグやモノローグや宣言が境目なく自然に移行するだけでなく、誰が発話したのかよくわからないせりふやポエムや作者のつぶやきも乱入して、交錯するのだ。
 まんがのせりふやことばは、どのように類型化できるのか。これは決して容易な問題ではない。

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