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2009年4月 1日 (水)

15■まんがの発話【3】作品内発話

 作品内でなされる発話について検討してみる。作品の中の登場人物や、それに類するものが発話する場合、一般的な言語の発話の問題を応用して考えることは、どこまで妥当だろうか。
 まんがの中の言語表現は多岐にわたる。まずは最もわかりやすそうな例として、登場人物同士が会話する場面を想定してみよう。この場合、発話はせりふとして表現される。同時に、絵やコマ割りなどは文脈を生み出し、読者が発話を解釈するための情報を与えてくれるだろう。また、そのせりふの方も文脈を生んで、絵やコマ割りを解釈するための情報ともなるだろう。前項で検討した語用論の考え方が広く応用可能であるようにも思われる。まんがのことばと、絵と、コマ割りなどの役割や連携のありさまを、そのような観点から整理してみることは、それなりに実用的であると思われる。
 問題なのは、それが演劇的なせりふであり、日常会話とは明らかに異なった種類の発話であるということだ。ある人物の発話は、他の人物へ向けられていると同時に、それを読んでいる読者を意識して発せられている。つまりその発話は、聞き手キャラクターの認知環境へはたらきかけようとしている「ふり」をしながら、実は読者の認知環境へはたらきかける意図をもっている。いわば、「意図明示的「意図明示的伝達行為」」という様相を呈することになる。その時、会話は自然的なものというよりは、どこかドラマの約束ごとめいたものとして受けとめられる。
 佐々木健一は次のように述べている。「台詞の本質は、自然的と約定的という二つの表現レベルを重層化していることにある」(「せりふの構造」筑摩書房)
 せりふが本質的なところで重層化しているとしたら、それがどのレベルで、どのようなつもりで語られているのかは、厳密には決めることができない。たとえばディアローグとモノローグが、自然に移行してしまうものであることを佐々木は指摘している。

 例えば長台詞について、形としてはディアローグの部分的肥大であるが、感じとられる実質はモノローグである、ということを指摘した。(中略)二人の間のアナログ的距離こそが、ディアローグからモノローグへの自然な移行のバロメーターである。極端な場合を想定してみれば、台詞のトーンを変えずに、相手役の位置だけ変化させるという実験ができるであろう。すると台詞そのものの実態は変わらないにもかかわらず、相手役の位置によって、ディアローグと感じとられたりモノローグと感じられたりする、ということがあるものと思われる。(同)

 佐々木の分析は演劇のせりふが対象であり、生身の人間が舞台の上で発話することを想定しているが、この件についてはまんがでも同様に考えられるだろう。会話であるはずのせりふが、実質的にはモノローグめいてくる場面は、ひんぱんに見られるように思われる。まんがの会話シーンで、話者だけがクローズアップになったコマは、場合によってはモノローグとして検討できるのではないか。せりふ内容も、いつのまにか会話ではなく「宣言」や「口上」めいてきはしないか。
 このように考えてみると、まんが編集者である筆者としては、ひとつ思い出されることがある。島本和彦「逆境ナイン」の連載を担当していたとき、筆者はひとつの方針を決めた。それは、せりふの文字書体を決める際に、「大声」と「モノローグ」を同一に扱う方針をとったことだ。つまり、強く口から発せられたせりふと、口から発しないで心の中だけで思っているせりふを、同じものと見なすということだ。それは、島本作品の中ではもともと区別がつかないことが多いし、つけない方がこの作品に合っていると感じたのだ。どちらも原則として同じ写研の書体ゴナE(とその前後のウェイト)を用いたが、結果的にそれは妥当な判断だったと思っている。それは、キャラクターの心の中で確かに念じられたことばであり、実際に音として口から出たかどうかは、まんがの表層上は大した問題ではない。たとえ音として聞こえていても、伝わらない相手には伝わらないし、伝わる相手には、音がなくても当然のように伝わるのだ――この作品の世界の中では。だから、モノローグとディアローグの境目もあいまいである。モノローグだと思っていると、いつのまにか他のキャラクターもそのことばに巻き込まれている。「実際に音がしたかどうか」にこだわることは、まんが表現においては時として無意味なのだ。
 ちなみに、現在新版として刊行されている小学館のコミックスでは、かつて私が指定した文字はすべて取り去られ、新たな文字に入れ換えられ、大声とモノローグは違う書体で区別されている。しかし、新版を担当した編集者は、どうやってこの2つのせりふを区別したのだろうか。少なくとも私には無理である。

 佐々木は、せりふを以下のように分類している。
 ディアローグ/デュオ/事件報告/宣言/口上/モノローグ/傍白
 他にも「祈り」や「うた」など、細かく指摘されているが、これらすべては、発話の状況を反映したものと考えられている。

(前略)言葉というものが、それの用いられる具体的な状況に深く根ざしたものであり、そして逆の言い方をすれば、その状況そのものの上に浮かび上ってきた現われに他ならず、言わばこの状況の徴候(symptom)の如きものである。(同)

 このような考え方は興味深いが、そのまままんがに応用するわけにもいかないだろう。役者が舞台の上で演じるせりふは、必ず誰か生身の人間の口から出たものであるが、まんがの場合はフキダシの中のせりふばかりとは限らない。口から発せられないことばが、さまざまな形で用いられる。その点で、まんがの場合は、状況というモードが切り替わらなくても、配置された文字が勝手に作品の中を浮遊する。だから、状況によってディアローグやモノローグや宣言が境目なく自然に移行するだけでなく、誰が発話したのかよくわからないせりふやポエムや作者のつぶやきも乱入して、交錯するのだ。
 まんがのせりふやことばは、どのように類型化できるのか。これは決して容易な問題ではない。

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