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2009年4月 7日 (火)

17■虚構の発話

 前に述べたように、まんがは一般的に虚構を提供することを目的に作られた作品である。
 ならば、「虚構作品内での発話」とは、どのようなものか。前々項では「せりふ」の問題を中心に考えたが、それ以外の面も含めて、虚構作品内で発話という行為をすることを、どのように考えたらよいのか。また、そもそも「虚構を発話する」とはどういうことか。
 そのためには、まず「虚構とは何か」を考えなければならない。
 虚構と、現実の言説との違いはなにか。単に「事実に反する」ということであれば、それは嘘や偽の命題である。それらとは異なった「虚構」とは、どんなものか。
 三浦俊彦は「虚構世界の存在論」の中で、「小説、劇、映画などの虚構は、直観的に言ってそれぞれ、現実世界に似たある世界を表現している」と述べた上で、「現実の出来事や対象から文学作品・芸術作品を区別する一つの重要な契機」として、「未規定箇所」「不確定性」「空白」などを検討の手がかりとして示す。具体的には、以下のようなインガルデンの説を紹介している。

 いかなる種類の芸術作品も、そのさまざまな諸性質の一次的レベルによりあらゆる点にわたって確定されているような物ではない、という顕著な特徴を持っている。言い換えれば芸術作品は、決定に際して、それ自身のうちに特有の空白、すなわち不確定性の領域を含んでいる。つまり作品は、図式的創造物なのである。さらには、作品が持つ全ての決定因子・構成要素・諸性質が現実性の状態にあるわけではなく、その中には単に潜在的であるものもある。その結果芸術作品は、いわばそれを具体的たらしめるためにはそれ自身の外側に存在する行為者、つまり観察者を必要とするのである。鑑賞における共-創造的な行為を通じて、観察者は、作品を「解釈する」と一般に言われていることを行なう。あるいは、作品の有効な諸特徴の中で作品を再構成することを行なう、と言った方がよかろう。こうして観察者は、作品それ自体からくる示唆に影響されつつ、不確定性の領域を少なくとも部分的に充填し、まだ単に潜在性の状態にある種々の要素を現実化することによって、作品の図式的構造を埋める。このようにして、芸術作品の「具体化」(concretion)と私が呼ぶものが訪れるのである。(「虚構世界の存在論」勁草書房 より引用)

 虚構作品は、ある世界についての有限な記述の集まりであり、その「世界」について書きつくすことはできない。そこにある記述がすべてである。だから「書かれない部分」は、単に空白である。どこかに存在するがたまたまそれを書いていないわけではない。受け手はそれを想像によって補いながら、受けとめていくことになる。(ただし、観察者による「具体化」という考え方については、三浦により批判が加えられている)
 つまり虚構とは、現実の世界とは異なったものだと了解した上で、受け手がその空白を補いながら、現実と同等であるかのような「メイクビリーブゲーム」(三浦)つまり「ごっこ」の中にいるべき世界を描写したもの、ということだ。受け手は、虚構世界を現実だと誤解したからその中にいるのではなく、虚構世界だとわかった上で、すっかりその中にいるのだ。
 虚構は、「それが虚構である」という意識が前提となる。ならば、そのような意識は、どこから来るのだろうか。受け手はどのようにして、それが虚構であるという意識を持つのだろうか。
 そのことについて西村清和は次のように述べている。

 「これは小説である」というメタ・コミュニケーションを可能にする慣習としては、「むかしむし、あるところに」といった素朴なきまり文句から、小説らしいタイトル、または宣伝文句など、さまざまなものがある。映画などのように、わざわざ「これはフィクションであり、偶然現実のだれかを指示することがあっても、関係はありません」とことわるばあいもある。いずれにせよ、これらの「フィクションである」とのメタ・コミュニケーションは、「このフィクションのなかの文のいっさいを、これが描写している虚構世界への指示にもちいよ」という指示規則を呈示するものである。
 なるほど、ラクロの『危険な関係』やルソーの『新エロイーズ』のように、現実の指示の「ふりをする」ばあいもある。だが、これは、小説のひとつのストラテジーとしての偽装である。(「フィクションの美学」勁草書房 より引用)

 文末にある「偽装」ということが、送り手と受け手に合意されるようなメタ・コミュニケーションは、いかにして可能になるのか。西村が指摘しているのは「慣習」だ。それが虚構であるかどうかは、慣習によって決定される。先に引用した三浦も、以下のように述べる。

 虚構の外延は何か。「虚構」という概念は、たとえば「文学」「芸術」といった概念よりも、制度的に定義する(外見や機能よりも社会によってどう扱われるかによって認定する)ことがふさわしいように思われる。サールは「作品が文学かどうかを決めるのは読者で、虚構かどうかを決めるのは作者だ」(Searle,1975;59)と言う。読者(とくに無知な)は機能・現象・に感応し、作者は制度的扱いを指令するという観察であろう。(「虚構世界の存在論」)

 虚構かどうかが社会的・制度的に決まるということは、神話を例にするとわかりやすい。神話は、現在の我々にとっては古典的な虚構に見えるが、語られた当時の人間にとっては「日常経験を解釈する有用な概念図式」(クワイン、西村)であり、現在の我々にとっての科学理論などと変わりはしない。つまり、神話は「虚構である」という意図とは無縁のものであり、受け手にもそのような了解がなかったということだ。それが今となっては大きく印象が変わり、神話になかったはずの「作者の指令」が、慣習的に前提されてしまう。
 虚構は、それが虚構であるというメタ・コミュニケーションに支えられており、それは社会的・制度的な文脈によって支えられている。よって、虚構の発話は、「虚構の内容を伝えようとする意図明示的伝達行為」という形でとらえれば、語用論的な考え方をそれなりに応用して検討できるだろう。
 ただし、そこには注意すべき大きな問題もある。虚構の発話について西村は、その存在論的身分が取り違えられやすいことを指摘している。

 われわれとしては、「現実について語る」ことと「フィクションを語る」こととは、発話が「経験に接する」かどうかの点で、その存在論的身分においてことなっている、といわざるをえない。すでに見たように、「フィクションを語る」とは、「これはフィクションである」つまり「ここで発話されるすべての主張文を、虚構世界を指示するものとせよ」というメタ・コミュニケーション的了解と慣習のもとで、作者が虚構テクストをを発話すること、そして、これによって虚構世界を造形し創造することである。「小説を書く」ということは、自分の現実経験の断片を記述し報告し、解釈するのに適した一定の概念図式を発話する認識行為ではなく、一定のイメージやキャラクターの造形、描写、構築である。それゆえ、ここで実在するのは、アンナやホームズや光源氏といった、虚構世界にすむひとりの「人間」、つまりあの「虚構内存在」ではなく、ちょうどキャンヴァス上に描写されたリンゴの視覚的イメージとおなじ意味で、端的に、これら人間の「描写」であり、言語的イメージである。
 ここでわれわれは、「フィクションを語る」独自のふるまいと、「フィクションについて語る」ふるまいとを、混同してはならない。作者による「主張のふりをする虚構的言説」と読者による「フィクションについての本気の言説」というサールの区別を、ローティが「Xについて語る」ことの徹底したプラグマティズムによって無効にしたとき、また野家が、科学や宗教をも、フィクションとおなじ資格で「物語」と呼ぶとき、かれらには、このふたつのことなったふるまいについての混同があるように思われる。もちろん、この混同は、科学や神話の言説とフィクションの言説を、おなじものと見る混同に由来している。
(中略)
 われわれは、虚構的言説にかんして、四つの行為レベルを区別する必要がある。第一に、虚構テクストの発話行為としての「小説を書く」作者の、虚構世界を描写し構築する行為であり、第二に、テクストのなかの個々の主張文を、じっさいに虚構世界への指示にもちいる語り手ないし登場人物のふるまいであり、第三に、テクストの主張文を、フィクションの慣習にしたがって虚構世界への指示として読み、小説を経験する読者の行為であり、第四に、そのような現実の読書経験に接して、テクストや虚構世界、さらには現実世界について主張する、批評的言説の行為である。そして、これら四つの行為レベルのなかで、批評的言説のみが、科学や宗教、神話といった発話とおなじ資格で、認識論的真理性にかかわる。われわれが見たように、論理学者が虚構的言説の存在論的身分を論じるさいの混乱は、小説を読む行為、つまり虚構的言説の指示にしたがって、虚構世界を経験する行為を、批評的言説の主張の行為と混同した点にあった。(「フィクションの美学」)

 虚構の発話は、世界を造形し創造する「描写」だという点に、西村は注意を促している。西村によれば、たとえば物理学者が素粒子についての仮説を提示するとき、指示されている素粒子は実在しており、他の学者も同等の資格で同じ素粒子について語りうる。一方、フィクションの中のキャラクター、たとえばシャーロック・ホームズの場合、実在するのはホームズではなく、ホームズの「描写」である。だから、我々が素粒子と同様に現実指示して語りうるのは、「ホームズ」ではなく「ホームズの描写」である。つまり、キャラクターではなく、キャラクターの描写である。
 我々は、「虚構的言説の指示にしたがって」キャラクターを経験する行為と、そのような経験について述べる行為を、分けて考える必要がある。つまり、メタ・コミュニケーション的了解のもとで、メイクビリーブの中にいて「キャラクター」を経験することと、そのような経験をふまえてキャラクターや作品世界や読書経験について述べることは、異なった行ないであるということだ。

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