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2009年4月13日 (月)

18■虚構内の発話

 虚構や、虚構を発話することを検討したところで、問題を「虚構内の発話」に戻す。
 前項で整理したとおり、虚構を読む者はそれが虚構だということを慣習的にわかっている。しかしそのような慣習は、「昔々あるところに」などの決まり文句や口上などがなくても、実際には多くの場合、ただせりふや文章を読むだけで了解されるのではないか。
 佐々木健一は、前出のように「台詞の本質は、自然的と約定的という二つの表現レベルを重層化していることにある」と述べている。つまり、せりふということばのあり方自体が「演劇的」である以上、そこにはすでに約束事が入り込んでいるということだ。そのような問題を検討するのに、佐々木はまず「モノローグ」に注目している。ここで改めて、モノローグの問題から、作品内の発話を検討してみる。

 モノローグという語は、佐々木によれば15世紀頃にフランスで造語された演劇用語であり、それが現実世界に転用されるようになったのだという。つまり、それはもともと、現実のありさまを指すことばではなかったということだ。
 演劇では、モノローグは実際に発声される。演劇ではどんな言語表現も、原則として発声という同じレベルで行なわれる。そこに演劇特有の面白さがある。まんがでは、言語表現はすべて文字で書かれたものであるから、演劇と同じような意味でのモノローグはありえない。その点では、我々はモノローグという用語をまんがに安易に使いすぎているようである。
 佐々木は演劇のモノローグを「一人きりの台詞のうち、内世界的地平を越えず、しかも非コミュニケーションの言葉として発せられるものである」としている。演劇では、実際に声に出さないとせりふを表現できないため、「発声されたが非コミュニケーションの言葉」という定義があてはまるが、まんがでは事情が異なるため、結果的には「発声せずに心の中だけにあることば」という用いられ方が一般的になっているように思われる。「発声しない」という点に重心がかかるのだ。

 とするならば、まんが(や他の書かれた作品)の場合、実際に声に出さないせりふが他人にわかるように書かれてある、という事実だけで、それはすでに作品としての約束事として感じられ、「これは虚構である」というメタ・コミュニケーションの明らかなサインになるはずである。現実世界では、発声しないかぎり他人にはそのことばはわからないからだ。
 しかも、そもそも「発声せずに心の中だけにあることば」ということ自体、どこか現実離れしているようにも思われる。我々は普段、どこまで心の中でことばを発しているだろうか。
 たとえば私が物思いにふけっている時、私の頭の中には具体的なことばが飛び交っているのだろうか。それとも、未だ言語化されないカオスのような思念が渦巻いているのだろうか。もしことばが飛び交っているとして、それは文として成立しているものなのか、それともことばの断片があたかもイメージのように入り乱れているのか。
 私が何かを思った時、それは「思った」かぎりにおいて、すでに言語として成立しているのだろうか。思惟とは、言語化されたもののみを指すのか、それとも前言語的な思惟というものを想定すべきなのか。想定すべきだとしたら、それはどのように言語で検討されうるのか。
 そのような面倒な問題はさておくとしても、少なくとも、きちんと文に表現された一般的なモノローグは、あくまでも他者(読者)が理解できることを意図した文芸的な表現であって、人間の内面の情動をありのままに抽出した何かではないことは、明らかだろう。それは、キャラクターのリアルタイムの情動を反映しているように見えながら、実際にはキャラクターの心理を反省的に言語化したものであり、読者に向けたことばとして書かれている。
 そのような意味で、まんがのモノローグは、「これは虚構作品内の発話である」というメタ・コミュニケーションのともなった発話であり、どんなに自然に見えたとしたも、前提として必ず「芝居がかったもの」である。つまり、モノローグを書くことは「虚構作品を発話する」という行為に明瞭に結びついているのであって、「虚構作品の発話」と「虚構作品内の発話」の境界は、実はそんなに明確なものではないといえるだろう。

 ならば、それはモノローグに限ったことではない。前に述べたとおり、ディアローグとモノローグの境界も実は明確なものではなく、いつのまにか移行しうるのである。モノローグに限らず、まんがのせりふはそれ自体にいつも「これは虚構である」というメタ・コミュニケーションが、多かれ少なかれともなっている。(このようなことの意識が、たとえば前に指摘したような手塚治虫の楽屋落ち表現の多用、しかもシリアスで大事な場面に使われたりすることの背景にもあるように思われる。あらゆるまんが表現の中には、いとも手軽にメタ・レベル表現へ移行する契機が含まれている)

 さらに、まんがには配置(レイアウト)という問題が加わる。
 演劇においては、原則としてせりふはすべて人間の実際の発話であり、同一の地平で検討しうるが、まんがの場合はせりふがキャラクターの表現から離れて、自由に配置されることが可能であり、それがどのような発話であるのかわからなくなる。配置によって、せりふの主体やレベルや時制などはいかようにも変動してしまう。そもそも、発話なのかどうかさえ、はっきりしなくなり、「せりふ」というよりも、ただ「ことば」として画面上に存在するようになる。それは、まんがのことばが「書かれたもの」であり、イメージとして配置しうるものである以上、もはや「発話」という言語の問題の応用ではとらえきれない領域に達するということだ。
 作品内の発話(せりふ)について、言語学的な検討を加えることは、ある特定の作品に限定した場合はそれなりに有効な方法であるが、まんがの問題として一般化するのは、きわめて困難だと思われる。

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