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2009年4月17日 (金)

19■書かれたことば

 以前にも述べたように、文字は書かれたものである以上、音価を持つ言語記号であると同時に、イメージでもある。この両面性については、さまざまな指摘がなされてきた。たとえばフーコーはマグリットの絵について述べる中で、カリグラムを例にして以下のように書いている。

 (前略)カリグラムが用いるのはあの文字の特性、すなわち空間内に配置し得る線状の要素としての価値を持つと同時に、音声的実質のひとつらなりの連鎖に沿って展開せねばならぬ記号としての価値をも併せ持つ、という特性である。記号として、文字は言葉を定着することを可能ならしめ、線として、事物を象ることを可能ならしめる。かくしてカリグラムは、示すことと名ざすこと、象ることと言うこと、再現することと分節すること、模倣することと意味すること、見ることと読むことといった、われわれのアルファベット文明の最も古くからの対立を、遊戯的に抹消しようとするのである。(ミシェル・フーコー「これはパイプではない」豊崎光一・清水正/訳、哲学書房 より引用)

 文字を言語記号として読む時は、イメージとしての文字は逃げていく。しかしイメージとして見ようとするならば、言語記号としては読まれなくなる。そのような両面を持っているのが文字である。カリグラムと同様に、文字の配置(レイアウトや描き文字など)によって文字のイメージ性を呼び覚ますまんがは、小説などと異なり、その両面性が問題として立ち現われる。
 文字を禁欲的にただ言語記号として読む慣習的な態度は、まんがの平面に文字が配置されることで揺らぎ、読者はイメージとしての文字を感じはじめる。そのようなイメージ化に抗して、禁欲的な扱いをするよう命ずる装置が「フキダシ」であり、「活字」であると考えられる。特に日本のまんがでは、この2つは、その文字をただ言語記号として受けとめるよう、読む者に働きかける約束事として機能しているように思われる。

 まずフキダシについて。フキダシにはさまざまな形状があるが、一般的に「囲み」であり、絵から独立した領域を示す枠である。それは現在の日本のまんがにあっては、画中にありながら画の権力が及ばない「画中の治外法権」領域であり、イメージ化に抗して文字を保護するための障壁として機能している。フキダシはただの文字用のスペースではない。文字がイメージとして読まれることの拒絶という役割を持っている。だからこそ、イメージを操るまんが家は、フキダシ内というイメージの治外法権領域については、支配権を編集者に明け渡して処理を委ねる気持ちにもなれるのだ。(商業誌においては慣習的に、フキダシ内の文字の書体や大きさなどは編集者が指定する。ただしDTP化によって状況は少し変わりつつある)
 以前の西村清和のフィクションの定義にならって言うなら、フキダシについて次のように言えるだろう。フキダシとは、「この枠の中の文字のいっさいを、イメージとしてではなく、ただ言語記号として受けとめよ」という指示規則を提示するものである。
 もちろん、それに収まらない側面もあるし、反する作例もある。規則といっても、規約としてどこかに示されているようなものではない。これは、メタ・コミュニケーションとして、そのようなものが作品から提示され読者が受けとめているという、現在のまんが(特に日本のまんが)の一般的なありさまを述べたものだ。現在のほとんどのまんが作品は、暗黙のうちにそのような指示を行なっており、それを前提として成立している。指示をはみ出すような表現は、多くの場合その前提があるからこその効果を意図しており、やはり前提を共有しているように思われる。

 「活字」も同じようなことを指示する。つまり、「活字で示される文字のいっさいを、イメージとしてではなく、ただ言語記号として受けとめよ」ということだ。もちろん、活字にもさまざまな書体があり、大きさや太さが変化する以上、イメージとしての効果が期待されてはいるが、かなり限定されたものである。(しかもそのようなイメージ効果は多くの場合、編集者による指定の結果であり、効果はきわめて不安定なものでもある)
 「活字」によってイメージ性が減ずる理由は、その形状の一定さだけではなく、社会的・歴史的な背景もある。活字になる文は、公的に承認されるべき体裁が整ったものであって、内容にもそれだけの価値があるという権威的な考え方が、長い間支配的であったように思われる。1980年代以降の日本社会に生きる者にとっては、活字は生活の中でもありふれたものであり、パソコンとプリンターさえあれば、個人でもすぐに操れるものだが、それ以前はそのような機会はほとんどなかった。手書きという私的なものと、活字という公的なものの間には、社会的なステイタスの差が明確に存在し、活字化される内容は「社会的に価値が承認されたもの」という印象が広く共有されていた。(たとえば、手書きの同人誌が貧相に見える一方で、和文タイプによる同人誌がどれだけ立派に見えたことか)
 かつては、手書きという私的なイメージの要素を濾過して言語記号だけを抽出し、純粋で公的なことばを印刷することが「活字化」だったのだ。文字に関してイメージ的なものは夾雑物であり、除去されることが、社会的なシステムに承認されることでもあった。

 このようなことを踏まえると、なぜ日本のまんがのフキダシ内の文字は、こんなにも活字ばかりなのか、という問いも興味深いものに思われる。このことを私は、まんが研究をしているアメリカ人の留学生に指摘されて、はじめて意識するようになった。おそらく、ここまで徹底的にフキダシ内に活字を使いたがるのは日本だけであり、海外のまんがやそれに類するものは、伝統的に手書きが多い。
 日本のまんがはいつからフキダシ内に活字を導入し、定着したのか。いつからさまざまな書体を使いこなすようになったのか。これは歴史的な問題として、きちんと研究される価値があるだろう。もともとまんがは、新聞や雑誌を媒体としてきたため、絵の周囲に活字は自然に組み合わされてきた。しかし、ことフキダシの中となると、意味は大きく異なる。
(このことについて私の印象を述べるなら、戦前の「少年倶楽部」の連載作品(たとえば「のらくろ」など)が大きな節目になっているように思われるが、きちんと資料を揃えて検討したことはないので、確証はない。ただひとつ言えるのは、そこには編集者(特に雑誌編集者)というものが関わっており、特に子ども向け雑誌特有の「教育的」姿勢が影響しているのではないかということだ。手書き文字は、誤字脱字があった場合に訂正が面倒なので、活字にしてしまった方が編集者は便利である。特に子ども向け雑誌の場合は、わかりやすい字で、わかりやすい文で書かれるべきであり、雑な筆跡や、誤った表現は、教育的配慮で訂正される、というのが編集者の考え方である。現在でもこの空気は伝統的な少年誌などには強く残っており、編集者が「よりよい表現」にしようと教師気分で無断でネームを変更してしまい、それが時として単に愚かな改竄となって、まんが家とトラブルになることは、日常茶飯事である。日本のまんが雑誌では、多くの場合まんがのネームは「まんが家のもの」とは認められておらず、かなりが雑誌編集者の支配圏にある)

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