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2009年5月 2日 (土)

21■推論すること

 まんがを読むという局面で、いったいどのようなことが起きているのか。その局面をいかに記述したらいいのか。
 単純に考えても、認知的な面からは、絵を読む、文字を読む、コマの配置を読む、ページを読むなどの問題点がすぐに思い浮かぶし、観点を変えれば、物語を読む、キャラクターを読む、情感を読む、空間を読む……などさまざまな立場からの検討が可能だ。ここでは問題を認知的な面に絞った上で、まずは「コマのつらなり」を読むことから考えてみる。絵、文字などは、他の分野とも共通する問題であり、まずはまんがらしい手がかりとして、コマに注目する。
 コマとコマが並んでいて、それらを次々に読んでいくとき、どのように解釈が成り立ち、意味が読み取られるのか。
 コマとコマは、それぞれ断絶している。それらをいくら並べても、単に断絶したものが並んでいるだけである。それらを次々と読んでいくときに、コマとコマの間を結合する「文法」は、以前に述べたように「と(and, et)」のみである(つまり、「これとは別のコマが存在する」という事実性のみである)。それ以上の明確な統語機能は、一般的なまんがにはない。にもかかわらず、その唯一の「文法」である「と」において、読者がさまざまな関係性を読み取り、解釈することで、多様な意味が産出されるとしたら、その得られた意味は、論理的に必然的なものではないだろうし、正当なものでもないだろう。それは文法的に正しい意味ではなく、「と」に込められた関係性を推定することによって得られた、仮定の意味である。
 ならば、我々が検討すべきは、そのような推定行為の実態であり、そこで働いている推論の論理構造である。読者はいかにして、ただの「と」から、多様な意味を導き出すのか。

 論理学において一般的な推論の形式は、演繹と帰納である。演繹(ディダクション)は、チャールズ・サンダース・パースによれば、分析的推論である。前提の中にすでに結論が含まれていて、論理的には誤ることはない一方で、形式的に閉じており、他の経験的な現実を参照する必要がないため、前提とされたこと以上に知識が拡張されることはない。
 帰納(インダクション)は、パースによれば拡張的推論とされる。帰納は演繹とは異なり、必然性ではなく蓋然性の論理であり、前提に含まれていないことを結論とする。だから、それが正しければ知識は拡張されるが、誤る可能性もある。
 パースはこの2つの他に、アブダクション(リトロダクション)という仮説形成法を第3の論理として示す。アブダクションは帰納と同様に拡張的推論であるが、帰納とは異なって、仮説を形成することによって新しい観念を導入する。パースは以下のように述べている。

 アブダクションは、説明のための仮説を形成する過程である。それはなんらかのあたらしい観念を導入する唯一の論理的な操作である。というのは、インダクションは、真偽の値を決定するだけであり、ディダクションは、たんに仮説の必然的な帰結をみちびきだすにすぎないからである。
 ディダクションは、あるものがこうでなければならない(must be)ことを証明し、インダクションは、あるものが現にこうである(actually is)ことをしめし、アブダクションは、あるものがこうであるかもしれない(may be)ことを暗示する。アブダクションを正当化するものは、ディダクションがアブダクションの暗示からなんらかの予測をみちびきだし、その予測がインダクションによってテストされるということである。そしてまた、そもそも私たちがなにかをまなび、現象を理解することができるとすれば、こうしたことの実現はアブダクションによるしかない、ということもアブダクションを正当化するのである。
(チャールズ・サンダース・パース論文集 5.171/魚津郁夫「プラグマティズムの思想」ちくま学芸文庫 から引用)

 アブダクションの論理は具体的にはどのように展開されるのか。米盛裕二によれば、パースは次のように定式化して説明している。

 驚くべき事実Cが観察される、
 しかしもしHが真であれば、Cは当然の事柄であろう、
 よって、Hが真であると考えるべき理由がある。
(中略)これらの仮説は「そのように考えるべき理由がある」、「そのように考えるのがもっとも理にかなっている」、「そのように考えなくてはならない」というふうに、ある明確な理由または根拠にもとづいて提案されているのです。そしてその理由または根拠はそれらの仮説にある程度の説得力、もっともらしさ(plausibility)を与えています。
(中略)
これは記号でつぎのように書き表されます。
 C
 H⊃C
 ―――
 ∴H
この形式が示すように、アブダクションは驚くべき事実Cの観察からそれを説明しうると考えられる仮説Hへのいわば「遡及推論」(retroduction)です。しかしこの式は後件Cを肯定することによって先件Hを肯定しているものであり、それはつまり論理学でいう「後件肯定の誤謬」(the fallacy of affirming the consequent)をおかしており,形式論理の規則に反しています。
 しかしパースはいいます、「アブダクションは論理的諸規則によって拘束されることはほとんどないが、しかしそれにもかかわらずそれは論理的な推論であり、アブダクションはその結論を問題的に、または推測的に言明するにすぎないことも本当であるが、しかしそれにもかかわらず、それは完全に明確な論理的形式を有するものであることをおぼえておかなくてはならない」(CP:5.188)。ここでパースがアブダクションは明確な論理的形式を有するといっているのは、もちろん形式論理的に妥当な論理的形式を有するということではありません。(中略)しかしパースの推論の概念にしたがえば、逆に、つぎのようにいうこともできるでしょう。すなわち、「心をもっとも必要とする目的、つまり、未知について推測するという目的にとって、演繹は役に立たない。それにもかかわらず、演繹的推論を正しい推論のモデルとする昔ながらの虚偽(ファラシー)のため、すべての困難が生じている。そのことは、少し考えれば明らかになる。演繹において、われわれは既知について単に手を加えているにすぎず、暗黙裡に知っていることを取り出して明確にするだけで、新しい情報は何も得られていない」。(中略)「人は諸現象を愚かにじろじろみつめることもできる。しかし想像力の働かないところでは、それらの現象はけっして合理的な仕方でたがいに関連づけられることはない」
(米盛裕二「アブダクション 仮説と発見の論理」勁草書房 より引用)

 アブダクションは誤謬の可能性をもっているが、新しい観念を導入する唯一の論理的操作である。それによって作られた仮説は、演繹によって検証の形を整え、帰納によって検証が行なわれ、正しいと推定される。
 この一連の流れは、まんがのコマを読み取る局面にも適合するだろう。つまり、コマBに続いて、驚くべき事実であるコマCが観察されたとき、読者は仮説Hを形成し、文脈(ストーリー、状況の連続性、キャラクターの同一性、経験的現実など)の正当性を参照することにより帰納的に検証し、その読み方が正しいと推定して、さらに次のコマDに進む。そこで観察された新たな驚くべき事実Dは、仮説Iを生むだけではなく、仮説Hに遡及して検証し直し、より熟考的に推論が進んでいく。
 もし、驚くべきコマCに出会っても、仮説Hを形成できなかったときはどうなるのだろうか。読者はHの内容が空白のまま保留し、次のコマDに進んで、そこから遡及的にHを形成可能かどうかを試すことだろう。それでも形成できなかったときは、さらに同様のことが繰り返される。一般的に「わかりにくいまんが」「難解なまんが」「詩的表現」と呼ばれるものは、そのような読まれ方がなされているように思われる。ある時期の佐々木マキや林静一などの作品は、その典型であろう。仮説が形成できないという経験の中で、保留を積み重ねていく先に、なお、意味ともいえないニュアンスのようなものが成立するかどうか。あるいはノイズ混じりで混乱した仮説を積み重ね、それらと戯れることを楽しむかどうか。
 アブダクションという考え方は、コマの解釈を論理的に検討する上で、きわめて有効であるように思われる。

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