« 21■推論すること | トップページ

2009年5月 3日 (日)

22■言語から記号へ

 パースはあらゆることを記号としてとらえた。我々が日常的に用いる「記号」という語の狭い意味にとどまることなく、言語の問題から、人間、宇宙にいたるまで、すべてを記号として考えた。だから、パースの記号論からすれば、まんがのあらゆる要素も記号である。絵も文字もコマもページも、すべて記号として検討対象になる。そのような思考のための概念を、パースは提供している。
 とするならば、これまで別のものとして扱ってきた「文字」や「絵」や「コマ」などを、同一の概念によってとらえ、総合的に検討することが可能になる。まんがの検討にとって、パースの考え方はきわめて刺激的であるといわなければならない。
 パースの思想は多岐にわたっており、記号についても広く細かい検討がなされている。一般的にパースの記号論でよく知られているのは、記号と対象の関係の3つの分類「イコン/インデックス/シンボル」だ。といってもパースは、記号と対象が二項的に相対すると考えているわけではない。記号は、それを解釈する別の「解釈項」を通して意味を持つと考えられており、対象・記号・解釈項の三つによる記号過程を想定している。解釈項はさらに新たな解釈項に媒介され、意味は連続的にダイナミックに展開していく。おのおのの記号も第一次性から第三次性まで3つに分類され、また、解釈項と記号の関係なども3つに分類される。パースの記号論は多くの点で3を基本としており、他のさまざまな問題点での分類の組み合わせも関係して、きわめて詳細な記号論が展開される。それらを体系立てることも、網羅することも、容易なことではない。だが、静的な記号学に比べて、動的な展開力を持つパースの記号論は、まんがのような展開性の強い表現を検討するには特に適しているように思われる。試しに「イコン/インデックス/シンボル」という概念を導入してみるだけでも、まんがの多くの問題を整理する上で非常に有効であることがわかるはずだ。
 たとえば、これまで度々問題にしてきた「まんが的な絵(戯画)とは何か」を、この3分類から検討し直してみるならば、ギブソンのいう「不変項」というとらえ方が可能なのは、対象との類似性であるイコン性においてであると考えられる(つまり感覚のレベルにおいてである)。インデックス性やシンボル性が強く現われる場合は(知覚され、認知されるレベルでは)、イコン性が希薄でも解釈可能である。以前に述べた「似ていないにもかかわらず等置すること」とは、イコン性の希薄なものをイコンやシンボルなどとして提示し、記号として解釈が成立することだ、と言いかえることができるだろう。まんが的な絵(戯画)は、単一の観点から検討すべきではなく、少なくともこの3つのレベルから検討される必要がある。
 絵はこの3つのレベルをさまよう。決して3種類の絵があるのではない。同じひとつの絵が、この3つのレベルをさまようのだ。たとえば、きわめてシンボル性の強い絵――手塚治虫のいう「記号的」な絵――だと思っていたものが、まんがの中で突如イメージとして感覚的に迫ってきて、驚かされることがある。いかにも「記号的」な絵でありながら、ある瞬間それが、意味未分化な原初的イメージとして現われ、強く心を揺さぶられる体験をすることがある。私にとっての手塚治虫のまんがとは、時としてそのような不意打ちをしてくる存在だ。それはおそらく、この3つのレベルの間で、どれとも決定できない状態に遭遇して揺さぶられる体験のようにも思われる。
 ――だが、そのように結論づけるのもいささか早計だろう。まずはパースの概念が示すさまざまな可能性を受けとめるべきである。

 我々は言語の問題を手がかりにして、まんがの検討に有効な概念を探してきた。しかしそろそろ問題は「言語」におさまらないところに来ている。言語を含む「記号」へと軸足を移すべきだろう。

|

« 21■推論すること | トップページ