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2009.07.09

まんがのアーカイブについて

■国立メディア芸術総合センターの問題

 趣旨や内容が空っぽのまま、政府の景気対策のバラマキで突然予算がついて、あわてて後から内容を考えるというドタバタのありさまでは、批判を受けるのは当然だし、そんな話が後でロクな結果を生まないことは、誰でも予想がつく。足腰が定まらないまま決まった企画は、たとえ実現しても、後で不採算になったり批判を受けたりした時に、存在基盤が脆弱だ。そもそも、これを推進する麻生首相や与謝野財務相などの政府側の発言が、日本の売れるコンテンツを海外に発信する、という経済効果からの文脈ばかりであって、ちっとも「文化的」ではないのは、さまざまな批判を受けた後も変わらず一貫している。だから、も し完成しても経済効果が認められなかった時には、この殿堂は存在意義を失うことになる。(たとえば2009年7月4日付朝日新聞―― 与謝野氏は「人知れず世界から評価されているアニメ、マンガなど無形文化的なものは、これからの日本の売れ筋になる。生活の糧を確保してくれる分野だ」と強調した。(中略)与謝野氏は「将来大きな果実を生む投資先のひとつだと認定した。趣味や遊びでつくるのではない」と述べた。)
 しかも7月3日付同紙によれば、今のところ「作品の多くを寄贈・寄託で集め、研究員はボランティア的な「客員研究員」を想定する」ということだから、少なくともまともに「資料収集」をしようという姿勢は感じられない。まんが・アニメ関係者の一部からは、歴史的な資料のアーカイブとしての期待があるようだが、上記の報道を見るかぎり、今のところ文化庁側にはそんな考えも予算も存在しないように思える。むしろ、うっかり貴重な資料を寄贈しようものなら、将来不採算で立ち行かなくなった時に、それらがどういう扱いを受けるのか、危うさを感じる。
 文化的な問題と、産業育成の問題が、明確に区別されないまま、それぞれの立場からの勝手な思い入れで話が錯綜している現状を見るかぎり、やはりこの件は最初から議論をやりなおさなければ、どうしようもないだろう。

■何をアーカイブ化するのか

 まんがやアニメなどを歴史的資料としてどう残していくかというのは、もちろん大事な問題だ。だからこそ、今回の国立メディア芸術総合センターのような火事場泥棒のようにして付いた予算に乗ってドタバタで進めてもらっては、かえって困るのだ。
 そもそも現状では、何をどのようにアーカイブにするのかも、はっきりしない。
 たとえば、話を「まんが」に限るなら、そもそもアーカイブにすべき「まんが」とは何のことなのか。
 現代マンガ図書館や京都のマンガミュージアムなどの施設では、主に資料としてまんがの「本」を収集している。まんがの文化を担ってきたのは、おおむね雑誌や新聞や単行本である。多くの研究者も、基本的にはそれらのものを資料として扱い、研究している。
  一方、一部のまんが家からは、今回の国立メディア芸術総合センターを推進する立場から、「まんがの原画を保存する施設が必要だ」という意見も出ている。まんが家にとっては、自分の描いた原画こそが「作品」であり、それこそが後世に残すべきものだという考え方だ。雑誌や単行本は、出版社の都合でデザインされたり加工されしたものであって、自分の「作品そのもの」ではない。印刷物はしょせん「劣化コピー」にすぎないのだ。
 これは以前、「まんがをめぐる問題」 という文章で書いたことだが、「まんがとはいったい何なのか?」というのは、立場によって大きく変わる。「まんが」という概念は、実はきわめて脆弱なものなのだ。まんがをアーカイブ化しようとするならば、「そもそも何がまんがなのか」という議論がまず必要になる。これは決して屁理屈をこねているわけではない。こういうことを考える場合にどうしても避けて通れない根本的な問題だ。それが定まらないままに企画を進めても、たまたま運営当事者となった人間の趣味や信念だけで「まんが」が決定されて、なりゆきでコレクションが進められるだけだろう。

 「まんがの原画を保存する施設が必要だ」という意見は、2003年に起きた「まんだらけ原画大量売却事件」の時にも、一部のまんが家から出されたことだ。(そういえば、その後も当のまんだらけはお天道様の下で堂々と商売を続けているみたいだが、商いの姿勢は根本的に改めたのだろうか? あの事件以降、店に足を踏み入れる気にならないので、実態は知らないが)
 その時の意見は、だいたい以下のようなことだった。
1)まんがの原画は量が多いと保管が大変である。本人が死亡すると、遺族は管理しきれずに、散逸したり廃棄されたりする場合がある。原画保存については、個人の力では限界がある。
2) まんがの原画を「美術品」として評価されると、場合によっては遺産相続の時に大変なことになる。現在は、課税対象はあくまでも原稿料や印税であり、原画はそのための材料として扱っているので大きな問題になっていないが、原画1枚1枚を資産として評価されると面倒なことになる。資産という形では所持したくな い。
3)このような問題を解決するために、公的に原画を預かってくれるところが出来てほしい。

 さて、このまんが家側の考え方は、決して理解できないわけではないし、ある意味ではもっともな話でもある。故人の原画が散逸してしまう問題は私自身も身近に見てきたし、原画を資産として扱うかどうかは、近年の雷句氏と小学館の裁判での原画の資産価値についての結果を踏まえれば、生々しい問題でもある。しかし、公的に原画を預ける機関というのは、あまり現実的な考えとはいえないだろう。
 当時も思ったことだが、たとえそういう施設ができたとして、あらゆるまんが家の原稿を預かれるわけはない。仮に実現したとしても、建物の容積と維持管理費からして、限界がある。ならば、どんな作品であれば受け入れるのか? 選別する基準が必要になる。その施設が美術館的なものであれば、おそらく研究員や学芸員が価値判断をして、重要と思われる作家や作品だけが受け入れられることだろう。もし国が予算を出しているのであれば、反国家的な作品や、公序良俗に反するような作品も受け入れられるのか。キッチュな文化でもあるまんがを、いったいどんな価値観で選別するというのか。キッチュな世界ではむしろ、一般的な考え方では「ゴミ」と思われるようなものこそ、大切なのだ。
 仮に、今回の国立メディア芸術総合センターが実現して、原画の収集を開始した時に、この主張をしているまんが家ご本人の原画は、果たしてセンターに受け入れられるのだろうか。おそらくご本人は自分の作品の価値に自信満々だからこそ、このような発言をされるのだろうが、もし当の「ボランティア的な学芸研究員」が異なった判断をして「あなたの原画はいりません」と断わった場合、どう思うのだろうか。

 まんがの原画をどう扱い、保存していくかは、大切な問題だが、公的な保存機関を作れば簡単に解決できるようなことでもない。
(続)

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